451話 バンコクのロイヤルホテルを巡るタイ現代史 後編  ―活字中毒患者のアジア旅行

 

 ここから語り手は、プラヤー・アヌマーンラーチャトンに代わる。彼の話はおもしろいのだが、タイ人の欠点だと思うのだが、時間に無頓着なのだ。だから、その話がいつのことなのか、はっきりしない。漫談を楽しんでいるだけならそれでもいいが、歴史資料として使おうと思うと、時間の迷路に迷い込む。だから、他の資料で、時間の羅針盤を作り、どの時代の話なのかたえず確認していないと、「時間に迷う」ことになる。次に紹介する話は、恐らく1920年代だろうと思われる。
 先に余談を入れる。タイ人の名前はなんと長いのだと思っただろうが、長い名は本来の名前ではない。「プラヤ―」など称号がつく場合と、欽賜名のように王から与えられるありがたい名前の場合や、中国人移民がタイ語の名前をつけるとき、「金」や「発展」「躍進」などといったありがたい単語をちりばめた結果、落語「じゅげむ」のように長い名前になったという場合もある。本来のタイ人の名前は短い。
 アヌマーンラーチャトンは、ある日、親友で、国会議事堂として利用されているアナンタ・サマコム宮殿の設計に関わったイタリア人建築家マリオ・タマーヨから、大急ぎで書類作成の手伝いをしてほしいと頼まれた。すぐさまタイプ打ちなどを手伝い、書類はできた。お礼はどうしたらいいのかと聞かれたので、「とびきりうまいイタリア料理を食べさせてほしい」といった。タマーヨはその要望を、長らくタイに住んでいるイタリア人マダム・サタロに頼むことにした。
 マダム・サタロの素状はよくわからないが、昔はバンコクのナイトクラブで働いていたようで、のちに二階家を借りてイタリア料理店を開いた。その店「トロカデロ」は、のちにトロカデロホテル(1927年創業)になる。なかなかのやり手らしいマダムは、ロージェンヌというホテルも経営していた。そのホテルは、サートン通りにある豪邸を改造したものだった。ここで、話がつながった。中国人商人の家は、イタリア人が借りてホテルしていたのだ。そのホテルで、アヌマーンラーチャントンはイタリア料理をごちそうになったのである。
 屋敷の抵当の話や、ロージェンヌホテルの所有者は誰なのかということは、一切わからない。マダムはその後間もなくして、ホテルから手を引き、祖国に帰った。それがいつのことかわからないが、すでに話した1928年のガイドブックに“Royal Hotel”として紹介されているので、1920年代なかばまでの話だろう。
 1920年代なかばごろに誕生したらしいロイヤルホテル(あるいホテル・ロイヤル)は、その後どうなったのだろうか。日本語による初めてのタイ旅行ガイドだと思われる『暹羅案内』(暹羅室、1938)を見ると、ホテル案内のページに,Orientalなどのほかに、“Hotel Royal” , “Bangkok Hotel” , “Menam Hotel”という三つのホテルの名があがっている。ロイヤルの説明はないが、「メーナム・ホテル及びバーンコーック・ホテルは、邦人の経営であるだけに万事に気安くもあり、通訳等の便宜も得られるし・・・」。とある。
 その後の追加情報も手に入った。『廣東・ハノイ、盤谷』(永田直三、河出書房、1942年)には、「あの館」のイラスト付きで、ホテルの項にこういう文章がある。わかりやすくするために、文の一部を改変してある。
日本食即ち日本人経営にはタイランド、メナム、バンコックがある。宿料は六バーツないし十バーツが最低だと案内書にある。私はタイランドの十バーツの室を採ったが、欧式で三食付きである。このホテルは元王室所有のものでローヤルホテルと称したものを、日本人が借受け改称したもので・・・・」
なんと、中国人商人の豪邸は、日本人経営のホテルになっていたのだ。上の説明が正しいとして想像すれば、精米業者トムヤーは、この屋敷を担保に王室からカネを借りたのだが、返せなくて王室所有の財産になったのかもしれない。それなら、ロイヤルという名称の謎が解ける。タイの王室はいまでも広い土地を所有していて、タイ最大の不動産所有者である。
 タイランドホテルの時代がいつまで続いたかわからないが、どんなに長くても1945年までだろう。戦後しばらくして、ソビエト政府が大使館として借りることになり、91年以降はロシア大使館になっていた。その後1999年に移転したのは、「50年間の貸借契約が切れたから」という説もある。
 ロイヤルホテルに関する情報はあまりないが、この建物に関する情報は、以下のものなどいくつかある。タイの新聞「ネイション」(2004.5.2)にこの建物に関する記事が出たそううで、下に紹介したサイトで要約している。
http://2bangkok.com/2bangkok-buildings-russian-russian.html
http://2bangkok.com/2bangkok-buildings-russian-russian1.shtml    (2008)
 付記:上で紹介している2bangkoku.comに載っているネイション紙の要約を参考にして、「アジア文庫から」の原稿を書いたのだが、間違いがあることを発見した。例の娘婿「トムヤーが1914年にあの豪邸を建てた」とネイション紙が報じているが、14年は彼が破産した年だ。豪邸を建てる余裕などない。あさはかにも、その間違いに気がつかず、私も間違った原稿を書いてしまった。今回やっと訂正でした。 
今回で、「活字中毒患者のアジア旅行」(抄)の連載を終える。

 これからしばらく、熱帯の旅行者に戻るため、更新はない。旅先から更新するなどといった小器用な小細工はしない(できない)。更新されないからといって、「もしや・・・」などと心配せぬように。なにか読みたい方は、この機会にバックナンバーをお読みください。1日2話読んでも、半年分以上あるので読みでがあるはず。