450話 バンコクのホテル・ロイヤルを巡るタイ現代史 前編  ―活字中毒患者のアジア旅行

 

 あれは、もう20年以上前のことになるだろう。バンコクビルマ大使館でビザの申請をした帰り道、サートン通りを散歩していたら、高い塀で囲まれた要塞のごとき施設の重い扉が私の前で急に開き、なかから高級車が出てきて、すぐさま走り去った。時間にして10秒あったか。鉄の扉のなかを覗くと、写真で見たことがある館が見えた。多分、ここだろうと予想していたのだが、高い塀のせいで、いままで確信できなかったのだ。
 そもそものきっかけは、1928年に発行されたタイのガイドブックが復刻されて、大枚はたいて買ったところから話が始まる。”Guide to Bangkok with notes on Siam” (Erik Seidenfaden , The Royal State Railways of Saim , 1928)を、オックスフォード大学出版部が1984年に復刻出版をした。私がその本をバンコクで買ったのは80年代後半だと思う。まだタイ・バーツが強く、日本円にして1万円をちょっと切るくらい高価だったと記憶している。
 情報が詰まっている本だということはわかるが、私の5日分の生活費くらいの値段なので、買おうかどうか数年迷い、するとこの本が書店から消え、あわてて探し回り、別の書店で見つけたら、もう迷っている余裕はない。「えい、やっ!」とばかりに、思い切って買ってしまったのだ。
 バンコクのホテルと言えば、誰しもオリエンタルを思い浮かべるだろうが、1928年発行のこのガイドブックで、筆頭で紹介されているのは、ラチャーティーウィー通りのパヤ・タイ・パレスである。元は宮殿のひとつで、現在はパヤ・タイ病院の敷地内にその建物が残っているらしいが、私はまだその建物を見たことがない。
 オリエンタルホテルは2番目でもない。パヤ・タイの次に紹介されているのは、サートン通りのロイヤルホテルで、オリエンタルはその次に紹介されている。室料も、オリエンタルよりも高い。「経営はタイ資本で、運営は西洋人。最近改装して、電灯や電気扇風機を入れた」とある。
 ロイヤルという名のホテルは、いまも王宮の方にあるが、もちろんそのホテルとは違う。1928年当時のガイドブックの付録でついているバンコク地図で、そのロイヤルホテルの場所を確認して、現在の地図ではどこなのかと調べて見ると、ソビエト大使館があるあたりだということがわかった。大使館は高い塀で囲まれて、内部は見えない。だから、ロイヤルホテルはだいたいこのあたりにあったらしいということはわかったが、それ以上のことはなにもわからなかった。それが、この日、まったく偶然にも私の目の前で重い大きな扉があき、大使館の敷地が見渡せる位置に立ち、大使館の館が見えた。その姿は、1928年のガイドブックに載っていた写真そのままだったのである。ロイヤルホテルの建物はまだ残っていたのだ。
 それから長い時間がたち、あのホテルのことはすっかり忘れているうちに、ソビエト連邦はこの世から消え、ソビエト大使館はロシア大使館に変わっているのだが、ロシアに縁のない私は、まったく気にも留めなかった。ところが、ここ数か月で、急にいろいろなことがわかってきたのである。
 そもそもは、ちょっと確認したいことがあって、タイの雑学王で、おもに民俗学を専門とする大学者プラヤー・アヌマーンラーチャトン(1888〜1969)の『回想のタイ 回想の生涯』全3巻(森幹男訳、井村文化事業社発行)のページをめくっているうちに、興味深い文章が目に入った。この本は雑学集のような本で、もちろんすでに読んでいるのだが、知識が浅いうちに読んでもよくわからないことが多い。読む側の知識と好奇心が増していくと、「ああ、そういうことか!」と納得することがでてきて、ついつい別の話題に引きずり込まれてしまうのである。
 複雑な話なので、整理しながら解説していく。重要な資料として、『バンコク土地所有史序説』(田坂敏雄・西澤希久男、日本評論社、2003)も使った。6500円もする学術書だが、タイ雑学本にもなっているおもしろい本だ。
最初の登場人物は、徴税請負人でもある中国人大地主、通称チャオスア・ヨムだ。彼は自分の所有地に自費で運河を掘り、交通路を整備した。その功績により、ラーマ五世から与えられた欽賜名が、ルアン・サートンラーチューユット。この名にちなんで、彼が所有する地域や運河の名も、サートンと呼ばれるようになった。ちなみに、サートン通りの完成は、1888年である。そのサートン通りに構えた豪邸が、私がほんの少し姿を見たソビエト大使館であり、その前はロイヤルホテルだった。
 次に登場するのは、彼の娘婿だ。父チャオスア・ヨムが30代で死んだので、家督を継いだ娘チェームは、タイ名トムヤー・ロンカワニット、欽賜名ルアン・チットチャムノンワーニットという精米業で財をなした男と結婚した。大金持ちが大金持ちの娘と結婚したのであるが、事業で大失敗してしまい、その穴埋めをするために、土地や家屋を抵当に、資金を借り集めた。義父が残したあの豪邸は、王室の財務部からの借金の抵当になった。結局、借りまくった資金では事業の立て直しができず、1914年に破産宣告をすることになった。
さて、あの豪邸はどうなったのだろうか。