576話 排泄文化論序章朝鮮編  その5

 『アジア厠考』1

 私が持っている便所本のなかで、もっとも資料性が高いのは、『アジア厠考』(大野盛雄・小島麗逸編著、勁草書房、1994)である。編者たちがかかわる大東文化大学とアジア経済研究所の研究者たちが、それぞれが得意とする地域や分野の論文を寄せて誕生した本だ。この本が出た時代、アジア研究所は実に興味深い本を出し続けていた。「アジアを見る眼」シリーズで、アジアの衣服や乗り物や住まいに関する論文集を出していた。研究者でもない私が、アジア経済研究所の定期刊行物を毎月楽しんで読むほど、日常生活に密着した情報を好奇心たっぷりで送り続けてくれた。その後組織内に何があったのかわからないが、出版物の内容がごく一部の研究者しか読まないようなものに変わり、一般人である私は身を引いた。『アジア厠考』と『第三世界の姓名』(松本侑作・大岩川嫩編、明石書店、1994)の2冊は、“アジ研”が好奇心満載の時代だった最後のあだ花といっていい。
 世界の便所はどうなっているのかというテーマで、写真やイラストで紹介した本というのは内外にかなりある。インターネットにも豊富にある。しかし、そのほとんどが、「今」しか見ていない。それぞれの国や民族の便所の過去に注目していないのだ。フランスやイギリスの便器史を扱った本はあるが、西洋世界を出ない。フランスの便器史を取り上げても、アラブ式便器(しゃがみ式便器で、カフェなどにある。フランスだけではなく、地中海地方にある)の歴史には言及がない。旅先で写真を撮って、「おしまい」という本がほとんどなのは、食べ物の本と同じだ。
 食べることと出すことは、誰でもする。だから、旅先でたえず写真を撮れば、料理と便所写真の簡単なコレクションがすぐできる。それだけで終わるのが素人とトラベルライターなのだが、研究者となればこれほどすさまじい探究心と学識のあるプロなのだと見せてくれるのが、この『アジア厠考』である。
 いままであまり熱心に読み込まなかった「韓国便所事情」(新納豊)の章を、この機会に精読することにしよう。
 これまでに何度も目を通している本なのだが、韓国編はざっと読み飛ばしただけだったから、新たな発見がいくつもある。韓国の旧タイプの便器は、日本のしゃがみ型便器とほとんど同じなのだ。しゃがみ式便器はアジアやアフリカにもあるが、いわゆる「金隠し」がついた便器は、日本以外では基本的に日本の植民地であった朝鮮と台湾にあるだけだ(あくまで、基本的にであって、ほかの地域での報告もある)。この事実はすでに知っていたし、韓国や台湾で実物も見ているし、使ってもいる。
 私が、「ああ、そうか」と初めて気がついたのは、便器の位置問題だ。しゃがみ式便器がドアに対してどちらを向いているのかという話だ。日本の場合が、ドアを背にするか、横向きなのだが、日本以外の地域では、横向きもあるが、ドアと向き合う位置が多い。つまり、腰掛式便器と同じように、便所に入ったら体を半回転させて、ドアに向き合う形でしゃがむ。アジアのしゃがみ式便器と付き合いの長い私は、もちろんこのことはとっくに知っている。しかし、韓国体験が乏しい私は、金隠し便器とその位置に関する考察をしたことがなかった。
 韓国の小汚い飯屋の便所に行ったとする。便器は金隠し式で、ドアに向かってしゃがむように設置されていたとする。男は、その便器で小便もする。そのまますれば、足の下に金隠しがある。それを避けるには、わざわざ便所の奥に行き、体を回転させなければいけない。韓国の男たちはどのようにしているかと筆者(新納豊氏)が調べたら、金隠しを無視して、用を足しているという。便所に入ったそのままの位置で、放尿する。金隠しは足の下にあるから、小便だらけになる。女性がその便所を使うとすれば、小便だらけの金隠しを目の前にしてしゃがむことになる。そういうことがないように、便器を180度回転させて設置すればいいのにというのが、日本人である新納氏の感想である。
 韓国も、使用後のトイレットペーパーを便器に流さない習慣の国だ。欧米以外(欧州と言っても、西ヨーロッパのことだ)で、紙をそのまま流していい国は、日本以外そう多くない。外国人旅行者がその事実にあまり気がつかないのは、紙を流してもいいようにできている中級以上のホテルを利用しているからだ。
 なぜ、紙を流してはいけないのか。その理由をいろいろ考えたことがある。
1、トイレトペーパーが水に溶けにくい。
2、下水管が細い。太いパイプを使うと、建設費が高くなる。
3、常に水不足で、勢いよく流すことができない。
4、配管工事が未熟で、勾配や曲線がうまくできていない。
 以上は私が考察しただけなのだが、筆者の新納氏は観察結果を踏まえて、こう書いている。
 「古い住宅の取り壊し現場などを覗くと、確かに配管工事の悪さが目を引く。屈折部分にL字管やT字管が使われず、細い管がそのままひん曲げられていたり、モルタルでつないであったりする。またトイレットペーパーも気のせいか水溶けが悪いようだ。それに浄化槽の問題もあるのかもしれない」
 私の想像は、それほど外れていなかったようだ。なお、台湾もまた紙を流さない国で、その考察はこの雑語林564話にちょっと書いた。
 韓国の人糞肥料の話の前に、余談を先にしてしまった。次回は、本筋にせまる。