575話 排泄文化論序章朝鮮編  その4 

 『写真でみる朝鮮半島の農法と農民』


 農学博士高橋昇(1892〜1946)は、1919年から26年間朝鮮半島の農業と農民を見てきた。日本に持ち帰った膨大な資料は、研究者や長男の手で一部が活字化されて出版された。それが前回紹介した『朝鮮半島の農法と農民』(1998)という高額書だ。持ち帰った資料のなかに、農村を写した400枚ほどの写真があり、今度は写真中心の本を作ることになった。だが、写真には撮影時期や場所などの情報が一切ない。そこで、編者たちが韓国を訪れて、撮影地を特定し、可能ならばおおよその撮影時期を推察し、写真に写っている人たちの家族を探して話を聞くという大変な作業を担った。こうした努力の成果が実ったのが、『写真でみる朝鮮半島の農法と農民』(徳永光俊・高光敏・高橋甲四郎編、未来社、2002)だ。前回で論文を引用した韓国人研究者高光敏氏が、この本でも重要な役割をはたしている。この写真集によって、20世紀前半の朝鮮の農村や農具や農民の姿がよくわかる。もし「日本語による韓国・朝鮮の名著100選」という企画があれば、ぜひ入れたい本だ。
 本文を見ていくと、肥桶であるチャングンを背負って畑に人糞肥料をまいている人の写真があった。ドラマ「イ・サン」で、ホン・グギョンが背負っていた肥桶だ。写真説明をちょっと引用する。
 「大小便の肥料を背負って運ぶ木桶を「チャングン」といい、(中略)各家には、およそ15〜20「チャングン」の大きさの便所があった。そこへ大小便を貯蔵し、さらに同じ量の水を加えて混ぜ、運搬し、畑に施した」
 「15〜20『チャングン』の大きさの便所」という表現が分かりにくいが、おそらく「容量がチャングン15〜20杯分くらいの穴があいている便所」という意味だろう。
 別のページには農家の家屋見取り図が載っている。高橋昇の資料を縮小して載せたもので読みにくいが、家から少し離れて小屋のようなものに「女便所」とあり、そこからかなり離れて、土間の隣に「便所」という書きこみがある。家庭でも男女の便所を別の場所に分けたのは、儒教が理由だろうか。
 農家に便所があり、人糞は肥料として使っていたこともわかった。それなのに、『庶民たちの朝鮮王朝』で説明されているように、なぜ「都は川も道路も糞だらけと」と表現されるようなことになっていたのか。正解はわからないが、想像はできる。ひとつは、人口増加による都のスラム化で、人口に見合った便所がなかったので、野グソをする者が少なくなかったこと。人口増加は、糞尿の生産過多・供給過剰を引き起こし、しかし的確な回収システムができていなかったのではないか。糞尿回収を生業とする者がいたという話が、『庶民たちの朝鮮王朝』に出てくる。日本のように、農民が直接回収することができないシステムだったとすれば、集めきれない糞尿は川に捨てられることになる。
 朝鮮人が肥料を重要視していなかったとは思えないが、日本と比べてどの程度重要視していたかは私にはわからない。そのこととは別に、やはり回収システムに問題があったのだろう。
 便所とは関係ないが、『写真でみる・・・』に、済州島の農作業の写真がある。女性ふたりがしゃがんで麦を刈っている光景だ。
 「朝鮮総督府は、戦時中に女性たちに『もんぺ』を着るように強制した。その後『もんぺ』は女性の作業着として普及し、『チマ』(スカート)を着て仕事をする風景がなくなった。このことからして、写真は総督府の命令以前の光景である」
 総督府朝鮮人の服装にも口を出していたとは知らなかったから、朝鮮近代服装史のお勉強もやりたくなった。
 ちなみに、高橋昇の伝記、『朝鮮全土を歩いた日本人』(河田宏、日本評論社、2007)も読んでみたが、肥料に関する記述はほとんどなかった。