577話 排泄文化論序章朝鮮編  その6 

 『アジア厠考』2


 
 『アジア厠考』の、「韓国便所事情」を書いた新納豊(にいのう・ゆたか)氏は、執筆当時は大東文化大学助教授で、現在は教授。韓国を研究地域とする文化人類学、農耕文化の研究者だから、今回の私の関心と合致する。農村と深く結びついている研究者だから、「田舎の便所」という章を書くことができた。名著のなかのこの章も、めっぽうおもしろい。
 韓国には、「嫁の里と便所は遠い方がいい」ということわざがあるそうで、古い家なら母屋と離れて便所がある。家畜小屋と並んでいることが多く、人間と家畜の糞尿を一緒にすることもある。
 田舎の便所も多様なようで、いくつかの例が紹介されている。
「人糞尿の場合、肥料製造および運搬の便宜上、通常は糞と尿は区別されている。糞は溜め枡へ、尿は木をくり抜いた舟形の容器に排泄することになる」
 この舟形容器の写真が載っている。短い丸太舟のようなものだ。上記の便所は板などで囲まれた空間の場合だが、ただ穴だけの場合もある。
 「人目を避けた建物の裏に位置するばあいは軒下にあって、かろうじて雨露はしのげるが、囲いは何もない。ここでしゃがむ場合、おのずと開かれた方に向かうことになる。近づく人があれば咳ばらいをするか、小石を投げるなどして、所在を知らせる」
この開放型便所の写真もある。穴がふたつあるだけで、その写真説明。
 「母屋の裏に位置する便所。囲いはなにもない。右が小便、右が大便である」
 小便と大便を分けて溜めるのは日本でも行われていたことで、大便は元肥に、小便は追肥にする。
 開放便所の話の後、山間部の便所の話はもっとおもしろい。
 「今でも山間の部落などで大便をする時に別に穴を掘らず土間にそのままする形式のものが残っている。この場合、踏石あるいは踏板で足場を高くし、用便後はオンドルの灰まぶすと湿気もなくなり、表面をおおうから臭いもなくなる。人糞尿は運搬に苦労するが、これなら相当の軽減になるだろう」
 植民地時代の資料では、こういう形式の便所の話が多く出てくるそうで、「田舎で糞溜めを掘るようになったのはそれほど古いことではないということだ。すくなくとも植民地以降であろう」とある。
 以前(この序章 その2)で引用した高光敏氏の論文「排泄の民具と民俗」の注に、1926年生まれの京畿道出身者の話として、こうある。
 「植民地時代の1920年前後して、朝鮮総督府は便所改良事業を広く行った。農家は補助金をもらってセメントで便所の穴を作った。セメントの穴の規模は、横8尺(約120cm)、縦6尺(約180cm)であった。セメントの穴になってからは人糞が土に染み込むことはなくなったので、人糞の上に灰や籾殻を撒くことも段々減っていった」
 便所の穴は、植民地時代以前はなかったのかどうかは、さらなる研究が必要だろう。
 糞尿はそのままでは肥料にはならない。発酵させなければいけないので、肥溜めが必要になる。その存在が、次の文章でわかる。植民地時代の話だが、釜山出身の詩人、金素雲(1907〜1981)の自伝『天の涯に生くるとも』(金素雲講談社学術文庫、1989)に、こんな文章がある。「子供が肥溜めに落ちると餅をついて食べさせるのがわれらの故里のならわしである」。