611話 最近の本の話 その5

 銀座とパリ 前編


 久しぶりに椎名誠の本を読んだ。彼が本についていろいろ書いた文章は躊躇せずに買うが、旅行記となると手を出さなくなったのだが、『風景は記憶の順にできていく』(椎名誠集英社新書、2013)は、「思い出の場所を訪ねて・・・」という構成だから、ちょっと興味を持った。
 椎名誠の旅行の本と相性が悪いのは、私がいわゆる「大名旅行」が好きではないからだろう。テレビ番組のための旅行だと、総勢十数人か二十数人か、あるいはそれ以上の大取材班の旅が、私の性に合わないのである。辺境、秘境ならば、それ相応の人に支えられなければ完成しない旅なのだろうが、今回はそういう旅ではない。
 「小説すばる」(集英社)の連載原稿を新書にまとめたこの本を読んでいると、やはり違和感があった。今回は日本国内の旅だから、通訳は要らない。日本語が通じるのだから、切符を買ったり、食堂に行っても、困ることはないはずだ。著者の思い出の場所に行くのだから、コーディネーターは自分自身だろう。著者よりも現場を知っている人は他にはいない。辺境に行くのではないから、大きく重い荷物があるわけではない。写真は自分で撮影するのだから、カメラマンが同行する必要もない。それなのに、今回の取材には、いつも付添が3〜4人いるのだ。このように、いつもお世話係が付き添わなければいけない理由が、私にはわからない。司馬遼太郎渡辺淳一のような作家の旅なら、付き添う世話係が何人も必要かもしれないが、椎名誠は自分で切符が買えない人ではないだろうに。ひとりでタクシーに乗れない人ではないだろう。旅は他人がいるとわずらわしいと私は感じるのだが、世間の有名作家たちは、取り巻きがいないと寂しく不安なのだろうか。
 あえて言うが、こういう団体旅行では、文章に深みが出ない。取り巻きが大勢いると、思い出を反芻する余裕がなく、たんなる移動記録でしかなくなる。それが、椎名誠旅行記の残念な点だといつも思う。もちろん私の好みで言っているのだが、テレビ受けする「壮大な風景」や「孤立した絶景」への旅ではなく、たったひとりでソウルでも台北でもハノイでも、もちろん日本国内でもいいのだが、ガイドもお世話係もなしに、椎名誠がただひとり、街をうろついただけの旅行記を読みたいと思い続けているのだが、どうやら無理な希望かもしれない。撮影のために、(おそらく)ひとりで日本を旅した文章は読んだことがあり、それはあまりおもしろくはなかったが、今回の旅は、思い出の場所を訪ねるというものだ。消えてしまった風景と消えてしまった人々(亡くなった人たち)への思いを語るなら、もっと内省的な文章がふさわしい。
 さて、この新書の「新橋・銀座』編だ。私にとっても思い出の多い場所なのだが、読んでいて「あれ?」と疑問に思ったところがあった。その昔椎名誠が勤務していたデパート業界誌の会社が新橋から銀座に移転したという部分なのだが、私の記憶と違う。アジア雑語林368話「銀座の長靴」で、その業界誌編集部は私がコックをやっていた店の隣り、銀座8-3だとわかったと書いたのだが、この新書によれば、移転したのは銀座8-9、天ぷらの有名店「天國」のすぐ隣りだ。私の勘違いかもしれないから、ネタ元の『怒涛の編集後記』(椎名誠本の雑誌社、1998)を再確認すれば、私の勘違いかどうか、簡単に事情がわかるのだが、あの本はとっくに捨ててしまった。買った本をすべて保管していく場所はないから、アジア、食文化、言語学、芸能、旅行文化など、いくつかのテーマから外れる読み物は処分の対象になる。この『怒涛の編集後記』は、松崎しげるのように相当日焼けしている本をブックオフで105円で買ったのだから、捨てることに抵抗はなかった。
 確認したいことがあって、捨てた本を買いなおすということはあるが、この『怒涛・・・』は文庫にはならず、アマゾンでは3770〜4900円の値がついている。1行確認するためだけにこの値段で買いなおす気はない。ほかのネット古書店だともう少し安いが、振り込みの手間や手数料を考えると購入をためらう。私が住む市の図書館にこの本はない。遠くの図書館にはあるが、交通費がかかる。
 というわけで、今回は「まあ、どうでもいいや」ということにしておこう。
 椎名誠のサラリーマン時代を描いた『銀座のカラス』はすでに読んでいるが、会社がある銀座のビルの屋上にテントを張って寝泊まりしていたエピソードを描いた『屋上の黄色いテント』という小説があることをこの新書で知り、さっそく注文した。私もまた銀座で働いていた時代があるので、その時代の銀座を描いた本を読みたくなったのだ。