610話 最近の本の話 その4

 明治の日本、ジンバブエ、そして東京


 明治時代に日本を訪れた西洋人の行動に関する本は、名著『逝きし世の面影』(渡辺京二平凡社ライブラリー、2005)があるが、日本語未訳の文献も加えて同じような本を書いた『グローブトロッター 世界漫遊家が歩いたニッポン』(中野明、朝日新聞出版、2013)は、斬新さはあまりないが労作とは言える。馬術用語で「トロット」とは「速足」のことで、グルーブトロッターとは、「地球を速足で旅する人」だが、著者は「世界漫遊家」と訳した。「速足」といっても明治のことだから、日本で暮らしている西洋人ではなく、旅行で訪れた西洋人を対象としている。ガイドブックや旅行書類のことなど資料となる記述も多く、明治の歴史や旅行史などに興味のある人はおもしろく読むだろう。
 この本で取り上げた旅行者のなかから、ひとりを紹介してみよう。「第5章 ガイドブックを片手にバックパッカー行く」で取り上げたのは、1845年生まれのアメリカ人の医者であり旅行家、アルバート・トレーシー・レフィンウェル。ペンネームを使って、次の本をイギリスから出しているが、日本語未訳。
”Rambles Through Japan Without Guide” by Albert Tracy, 1892
 著者が彼を「バックパッカー」と呼んだのは、日本を訪れたそれまでの西洋人旅行者たちと違い、ガイドの代わりにガイドブックを持ってひとりで旅したからだ。それがどういう旅だったかいちいち紹介すると長くなるので省くが、私が傍線を引いたのは、荷物の一部を書きだした部分だ。イザベラ・バード旅行記でも荷物リストが興味深かったが、この旅行者のリストも興味深い。
 「荷物の多くは食料品で、パンや缶ミルク、ジャム、ママレード、ベーコン、砂糖、コーヒー、ウスターソース、普通のピクルスにからし漬けピクルス、シカゴ製缶詰肉、リービッヒの肉エキスなどだ」。「リービッヒの肉エキス」については、次のような著者(中野明)の詳しい註がついているあたりも、ちゃんとした本である証拠だ。「ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒが廃棄された牛肉を活用するために開発されたもの。スープにした牛肉を煮詰めて塊にする。1865年に会社が設立され商品化された」。トレーシーは「このエキスが半ダースあれば、1カ月はもち、なんとか西洋人らしい食事ができる」と書いている。ちなみに、ウィキペディアではこのエキスについて、次のような記述がある。「肉エキスは後に栄養学的にはあまり意味がないことが明らかになったが、嗜好品として商業的には大成功し、食品加工産業の先駆となった」。
 この章を読んでいると、著者が重要視しているのはトレーシーの旅そのものよりも、明治期の英文の日本ガイドの紹介のほうだとわかる。だから、この本は一般の読者にはやや読みにくいだろうが、旅行史に興味のある人には読みでがあるのだ。
 アマゾンの「カート」に入れたまま忘れていた本を思い出し、すぐさま注文した。『アフリカ人の悪口』(吉國かづこ、日本文学館、2011)は、刺激的なタイトルだが、全編悪口のわけはないと思い注文してみた。著者の夫が書いた『グレートジンバブウェ』(吉國恒雄、講談社現代新書、1999)は、出版当時大いに話題になった。吉國夫妻はアメリカで2年暮らした後、ジンバブエに留学することになった夫とともに移住、以来15年間アフリカで暮らした。恒雄氏は2006年に亡くなっていることを、この本で知った。
 アフリカ関連書で、何かおもしろい本はあるかと探していて見つけたこの本は、かなり変わった作りの本だ。自分の家族のことは、自分の出産と夫の交通事故以外ほとんど触れていない。全体の構成は、普段の生活で出会うジンバブエ人のプロフィールである。「出会いと別れの物語」ではなく、人物インタビューの取材メモである。だから、これだけ多くの無名人が登場するアフリカ関連書は、おそらく他にない。インタビューした人は著者の近くにいる人がほとんどだが、意識的にある特定の人々をインタビューしたのが、「お茶の時間 エイズHIV感染者に聞く」という章だ。ジンバブエの政治や経済を論じるジャーナリストや学者の視点ではなく、自分の身の回りの雑事だけを書く駐在員夫人の独り言でもなく、感情的にならず、「悪口」はそれほどない。淡々とした語り口が、当時のジンバブエの日常生活をうかがわせる佳作だ。
 話題が変わるようで、変わらないともいえる話を追加する。ついさっき、電車で50代後半と思われる男が隣りに座り、すぐさまバッグから取り出した本が視界に入った。ちょっとしゃれた造本だ。書店のカバーがかかっていないから1秒足らずに書名を読み取ろうとしたが、『東京○想』と1文字が不明だった。男がページを開いた。本文を素早く盗み読むと、気になる単語がいくつか目に入った。帰宅してすぐさま調べると、その本は『東京断想』(マニュエル・タルダッツ著、石井朱美訳、鹿島出版会、2014)だとすぐにわかった。著者は日本に30年ほど住んでいるフランス人建築家で、東京に関するエッセイらしい。書店で内容をチェックしないとどの程度の本かわからないが、ちょっと気にかかっている。