656話 きょうも散歩の日 2014 第14回

 それはそれは、長い長い1日でした。後編


 船はジブラルタル海峡に出て行った。高速船だから、わずか1時間で着くという。地中海縦断の航海は、かつてエジプトのアレクサンドラからギリシャピレウスまで乗ったことがあり、ジブラルタルはその航路よりもはるかに短いことはわかっているが、まさか、ヨーロッパとアフリカの両岸を同時に見渡せるほど狭い海峡だとは思わなかった。船の左側に立つと、左手にセウタとモロッコ、つまりアフリカだ。右手にはスペインが見える。十数キロの幅らしい。
 またヨーロッパ大陸に戻ってきた。退屈する時間もなく、スペインのアンヘシラスに着いた。鉄道駅に行き、「ロンダ、1枚」と告げた。窓口の駅員が料金表を見ながら、「えーと、ベインティ・・・」(20・・)と言いながら料金表で金額を確認している。あまりの高さに「ええ?」と驚いている私の心が読まれて、「3時半発の電車なら、10.75€」という。30分遅らせれば半分以下になるなら、そのほうがいい。
 電車の発車時刻まで2時間あるから、きょう最初の食事ができる。食堂に入ったら、メニューのスペイン料理はすべてできなくて、モロッコ料理だけだというので、「もう、モロッコ料理はもういい」と言って店を出た。別の店を探したら、カフェテリア方式の食堂があり、魚のトマトソース煮込みとパエジャ(日本では、パエリア)を注文した。水1.5リットルも加えて、7€。
 3時半の電車はすいていた。この電車はグラナダ行きらしい。スペインは今回で3度目だが、グラナダにはまたしても寄らないことになりそうだ。大観光地とはどうも相性が悪い。ついつい避けてしまう。車内のほとんどの人は、スマホかノートパソコンを取り出して作業に熱中している。パソコンから白いコードが下に伸びているので、もしかして充電かとひじ掛けをあげると、そこにコンセントが2口あった。車内にひとりにひとつのコンセントの時代は、日本には訪れているのだろうか。窓の外を眺めているのは私だけだ。海岸の街を出て、しばらくするともう山の中だ。スペインが山の国だということがよくわかる。
 5時にロンダ着。観光案内所はまだやっているかどうかわからないが、とりあえず急いで行ってみることにした。駅から1キロほどありそうだが、道路わきの案内板の矢印に従って急いで歩く。こうして、荷物を持って歩けるように、意識的に小さめのバッグにしている。大きなバッグだとついついいろいろ入れたくなり、重くなり、持って歩くのがおっくうになる。カート付きのトランクを引いて、石畳道とアスファルト道を1キロも早足で歩くのも嫌だ。
 観光案内所はまだ開いていた。聞きたいことはふたつある。ひとつは、この近くにある安くていい宿。これは毎度おなじみの質問だから、すぐさま地図をくれて、近くのペンションを2軒推奨してくれた。質問のふたつ目は、ここからバルセロナへの行き方だ。
 「もし、バルセロナに用があったとして、どうやって行きますか?」
 「飛行機ですね」
 「ここから?」
 「こんな小さな街に飛行場はありませんよ。マラガからです。飛行機がいちばん速いのはもちろんですが、時期によってはいちばん安いこともありますよ。安いと、40€台ということもありますから」
 スマホを持っていないから、安い航空券を探すことはできないが、探す気もない。飛行機で飛ぶというのが、ここからバルセロナまでの、もっともつまらない移動手段だからだ。飛行機がたとえもっとも安い移動手段だとしても、つまらない旅はしたくない。
「ここからは、バルセロナ行きのバスは出ていないんですね」
「ええ、マラガに行けばたぶんあるとは思うんですが、バスの情報はよく知らないので・・・」と、事務所のパソコンで調べてくれたが、わからなかった。
そういうわけで、きょうはここに泊まり、あすマラガに行くことにしよう。観光案内所を出ると、赤い夕陽がロンダを照らしていた。日没まであまり時間がないから、宿に行く前に、この景色を見ておこう。荷物を持ったまま、街を歩き回る。ここに来た日本人の95%は、「ここには、地震や集中豪雨はないのかしらねえ」と言っているに違いないと思った。そう言いたくなるような景色が広がっている。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80&biw=856&bih=894&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=XftnVJTUKoTYmAWu24GoAw&ved=0CAYQ_AUoAQ
 観光案内所で紹介してもらったPension Ronda Solに空き室があった。17€で朝食付きは安い。部屋がきれいだ。都会に出ていた息子が帰郷して、母といっしょにきりもりしているというような感じの宿だ。ロンダは有名観光地だが、団体客は通過するだけで宿泊することはあまりない。団体客が去った夕方や、まだ観光バスが来ない朝は、わさわさした感じがあまりしないのだろう。気に入った。この街はいい。こうして、モロッコの山の中の夜明け前から始まった長い長い1日は、ロンダの夕陽とともに終わった。
この後の話を付け加えておこう。
 翌日、マラガまでバスで行き、バルセロナ方面のバス情報を探した。バレンシアはあまり魅力的ではないので、バルセロナに直行することに決めたのである。
バス会社の窓口に行った。
 「バルセロナ 行きのバスはありますか?」
 「はい、今夜のバスですね。9時30分発です」
 明日の便だと考えていたのだが、今夜か。今2時だから、それなら、マラガの散歩を7時間ほど楽しめる。
 「はい、そのキップを1枚ください」
 「89.50€です」
 「うっ、おお、あ〜・・・・」と驚愕し、慟哭。バルセロナマラケシュ間の飛行機代は諸経費込みで98€だったなあと、その金額が頭を駆け巡る。セウタからバルセロナまでの交通費合計は150€を超えた。たしかに、飛行機がいちばん安い。このバス代なら、日本にあるような高級夜行バスかと予想したのだが、路線バスよりはましという程度だった。そのせいだろうか、バルセロナまで行く客はほとんどいない。夜行バスは、のんびりと15時間かけて走り、翌日の昼過ぎにバルセロナに着いた。途中の短い区間に乗り込んできたのは、山中でふた月を過ごしたという感じの韓国人女性ふたりだった。山岳部の合宿帰りのような荷物とタオルを首に巻いたサンバル姿で、化粧気のない質実剛健・体力自慢ぶりは、実際に知っているわけでもないのに、植村直己が部員だったころの1960年代の大学山岳部員が思い浮かんだ。
 特急でも急行でもなく、快速程度のバスだった。だから、値段の高さが身に染みるが、時間がかかったその分だけ、車窓風景をたっぷりと楽しんだ。オリーブとオレンジしか作物のない畑は味気ないが、それがわかっただけでもいい。私は、車窓を走り去る風景を眺めているのが好きだ。
 飛行機がいちばん安いというのは日本でも同様で、北海道や九州からバスで東京に行くなら、夜行バスよりも飛行機の方が安い。移動が目的なら安い方がいいのだが、楽しく旅をしたいのならば、それはまた別の話だ。