786話 インドシナ・思いつき散歩  第35回


 ハノイサイゴン その1 飯屋にて

 ハノイサイゴンの間に対抗意識があるかどうかは知らないが、サイゴンハノイに対して対抗意識を抱いているのは明らかだと思う。日本で言えば、大阪は東京に対して非常に強い対抗意識を抱き、敵視しているが、東京はなんとも思っていないという構造に似ているのかもしれない。ただし、ハノイの1000年の歴史的背景でいえば、ハノイは東京ではなく、京都である。だから、現在のハノイは古都京都+首都東京というわけである。
 20年前にベトナムに行った初日にそれを感じた。「サイゴン」は旧称で、今は「ホーチミン」と変わっているのだと思っていたのだが、普通に「サイゴン」を使っている。
 「ホーチミンは人名です。街の名はサイゴンです。この街を『ホーチミン』と呼べと決めたのはハノイの連中で、だから、それを守っているのはハノイ政府だけですよ」
サイゴン住民は、「サイゴン」という名に親しみと愛着と誇りを感じており、政府の通達なんぞで変えてたまるかという意識があることがわかった。かつて、ベトナムが二つの国に分かれていた時代は、北ベトナムの首都がハノイで、南ベトナムの首都がサイゴンだったわけで、戦争終了後、南が北に征服、占領されたという意識を持つ人もいる。
 規則の上では、都市名のSaigonは、現在はThanh pho Ho Chi Minh、短く書くときは、TPHCMなどと書く。Thanh phoは「都市」という意味だから、英語では”Ho chi minh city”(略称はHCMC)、日本では「ホーチミン市」としている。サイゴンに住んでいる若年層は現在、「サイゴン」という名に、それほど強い意識はなくなっているという話も聞いた。
 ハノイで通っていた食堂で、最初の夜に相席になったのは30ちょっと前くらいの男だった。私はひとりで座るから、繁盛しているこの店では、誰かが私の前に座ることが多い。娼婦の心境というほどではないが、「今夜はどういう人が話し相手になるだろうか」という期待はある。
 夕方、空港からハノイの宿に着き、荷物を置いて近所を歩いて飯屋探しをして、たまたま見つけた食堂だった。そこでその男と出会った。どういうきっかけで話を始めたのかは覚えていない。アメリカ留学の経験ありといってもおかしくないほどの英語をしゃべる、サイゴン育ちの男。サイゴンのある企業のハノイ支店勤務なのだという。それならば、サイゴンハノイの比較話を聞きたい。物価や給与水準には、違いがないという。
 「サイゴンの方が経済活動が活発だから、ベトナムで金持ちになるのは、サイゴンで起業するのがいい・・・」
私がそのあとを続けた。
 「あるいは、ハノイで官僚になるかですね」
 さすがに、食堂という場で、「それに、軍や警察の幹部も」とは言えなかった。
 「そう、その通り。ベトナムのことをよくご存じで。ここの役人、本当にひどいからね。物事はテーブルの下で決まる」
 と言いつつ、手を食卓の下に入れるしぐさをした。「この話、聞いている人がいないといいが」と、小声で付け加え周囲を見回すジェスチャーをした。“Under the table”は、日本語では「袖の下」、つまりワイロのことだ。ベトナム共産党独裁政権下では、政府批判はいっさいできない。マスコミが役人の不法行為を報じるということはないので、公務員はやりたい放題だ。
 「ベトナムの政治を見ていると、中国に似ているなあと思うんですよ」というと、
 「そりゃそうですよ。我々は2000年以上前から、中国を手本に学んできたんですから」
 食事をしながら、そういう雑談を30分ほど楽しみ、別れ際に名刺を渡した。「facebookは、やっていますか」などと聞くので、そんなものとは無縁だが何か連絡したいならばと、メールアドレスが書いてある名刺を渡した。
 帰国したら、メールが来ていた。
 「もう帰国しましたか。ベトナムの旅はどうでした?」
すぐに返事を書いた。
 「ハノイが美しい街である最後の姿を見ました。もうちょっとすれば、高架鉄道や地下鉄の街になりますね。ハノイでは、親切な人に出会い、楽しいひとときを過ごしました」
 数分後に返信が来た。
 「それはよかったですね。ハノイは、日本のODAとJICAのおかげで、どんどん変わっていきます。ハノイが気に入ったのなら、次はサイゴンにもぜひ来てください。あの食堂でお会いしたとき、ハノイに懐疑的な感情を抱いているように見えたのですが、楽しく過ごせたのですね。まあ、あんな変な街じゃ、疑い深くなるのは当たり前ですが。そうそう、私のfacebookは、これです。もし、またベトナムに来ることがあれば、連絡ください」
 「懐疑的な感情」というのは、多分、20年ぶりのベトナム、初めてのハノイの第一夜ということで、観察の旅はまだ手探りだったことが読まれたのだろう。私はわかりやすい男らしい。
 そのfacebookを見ると、趣味に「cai luong」とある。歌劇カイルオン(この旅行記シリーズの第15回を参照)が好きなら、教えてもらいたいことがいくらでもあったのに。
 ちなみに、ベトナム人ハノイサイゴンを比較したイラストを見つけた、こういう物です。http://www.vietmaru.com/archives/27233130.html