787話 インドシナ・思いつき散歩  第36回


 ハノイサイゴン その2 民と官


 ハノイはどういう街なのかという興味が、今回の旅のそもそものきっかけだった。出発前の様相は、この街をそれほど気に入ることはないだろうと思っていた。私の趣味は、サイゴン派だからだ。シンガポールニューデリーよりも、香港やカルカッタが好きなタイプである。ごちゃごちゃした街の方が好きだから、サイゴン派だと思っていた。サイゴンとはどう違うのかと思ってこの街に来たら、たちまちハノイが気に入ってしまった。20年前のサイゴンと現在のハノイを比べるのは公正ではないのだが、現在のサイゴンがどうであれ、ハノイを気に入ってしまったのだからしょうがない。帰国後、アジアで特派員経験もある知り合いのジャーナリストに、「ハノイは、いいですよ」と言うと、「あんな街のどこがいいんですかねえ」と言われたのだが、そう言いたくなる気持ちもわかる。
 ハノイはつまらないかもしれないと危惧していた最大の理由は、官だ。民よりも官が幅を利かす街、公務員が大威張りしている街が、おもしろいわけはない。実際にハノイを歩いてみると、たしかに官が目につく。官庁、大使館、軍関連施設など、大きく目立つ施設が多くある。一般人立ち入り禁止だから、目障りなのだ。
 ある日、ちょっと気になる建物があり、どういう役所か知りたくなって門の脇の看板を見た。ベトナム語の下に英語の表記もあって、はっきりとした記憶ではないのだが、「軍事産業庁」と、軍のなにかの部門の共同庁舎らしいと思い、確認しようと門の前で立ち止まっただけで、なかにいた軍人に「あっちに行け! シッ! シッ!」というジェスチャーで追い払われた。武器や軍事物資の供給先と需要先が同じ庁舎に入っているらしいと思ったのだが、本当にそうなのか確認する時間はなかった。
 いかにも、官中心と感じるのは博物館などの施設の昼休みだ。昼休みのない施設もあり、ハノイに限ったことではないのだが、たいていは1時間半から4時間もの昼休みがある。入場者のことよりも、公務員である職員を楽にさせることしか考えていない勤務体制だ。しかし、こういうこともあった。
 散歩の途中に歩道から城門が見えて、何だろうかと思い入り口に進むと、世界遺産タンロン遺跡(旧ハノイ城)だとわかった。なかを覗いてみようとしたら、「昼休みだ」と警備員に言われた。1時半まで昼休みだという。まだ40分以上ある。このあたりはもう散歩をしているから、これからまた40分の散歩はしたくない。だから、売店前の低い椅子に腰を下ろして休憩していたら、警備員が肩をたたいた。門からちょっと離れた入場券売り場がある建物の方に招く。何を言いたいのかわからないが、警備員のあとからついていくと、入場券売り場の前に、空調がやや効いた待合室があった。警備員は、「ここでお待ちください」というようなジェスチャーをして出て行った。官の規則と、その規則の中でできるだけ快適に過ごしてもらおうという気遣いがある。
 官はつまらんと感じたきっかけは、新旧の国立歴史博物館がおもしろくなかったことだ。入る前からつまらないとわかるベトナム軍事歴史博物館、ホーチミン廟、ホーチミン博物館、防空・空軍博物館など官製施設があって、博物館巡りをする気力がなくなった。ベトナムの現代史は戦争の歴史だということはわかるのだが、軍の栄光の歴史を誇示する施設を見たいとは思わない。
 そんななかで、行ってみたらおもしろかったのが、すでに書いた民族学博物館のほか、生活博物館でもあるベトナム女性博物館(36 Ly Thuong Kiet)がよかった。女性へのインタビュー映像に英語の字幕がついているので、外国人でもわかる。「働く女性の生活と意見」に関するインタビューは、よくできている。旧市街には古い住宅を修復した伝統的住宅(87 Ma May)や、ハノイという街の歴史がよくわかる文化交流センター「Cultural Exchanges Center」(50 Dao Duy Tu)などがある。これらの施設は、フランス政府の援助で旧市街保存運動をしている「旧市街遺産情報センター」(Old Quarter Heritage Information center)の手によるものだ。民族学博物館のように、外国の援助を受けたものはおもしろく、ベトナム共産党が誇示したい施設がつまらんというのは、私の歴史認識不足だろうか。
 考えてみれば、ベトナムの官が私に対して何か不愉快なことを仕掛けてきたということは一度もなく、ただ政府関連施設の制服の者(それが軍人か警官かわからない)が不愉快だったというだけだ。ということは、「ハノイの官」は、短期間の散歩者であった私には危惧していたような実害はなく、だから楽しかったというわけだ。
 ハノイの散歩を楽しいと思うかどうかは人それぞれの好みの問題だが、ハノイが気に入った理由のひとつは、この20年ほどの間に「人込み嫌い」の傾向が出てきたからかもしれない。大都会ハノイの静けさ(場所にもよるが)が、居心地がいいのだ。ヨーロッパの小都市の、日曜日の静けさはうんざりだが、アジアの大都市のちょっとした場所の静けさはいい。
 『ベトナムのこころ』(皆川一夫、めこん、1997)にも、ハノイサイゴンを比較した文章がある。同時に、両都市の今昔物語もある。1970年代から90年代までの移り変わりのすさまじさが実に興味深い。1975年からハノイ日本大使館勤務となった著者は、トイレットペーパーなど生活必需品の買い出しのため、わざわざバンコクに通っていたといった思い出話がとても興味深い。ベトナムの南北差や民と官の比較など、無知な旅行者に有益な情報を与えてくれた。この本の出版当時に読んでいるが、内容をあまり覚えていなかった。現地に実感がないと、内容が頭に入っていかない。旅行体験がないと、「へー、あそこは昔、そんなだったのか」といった驚きがなかったのだ。
 私のような旅行者には、こういう本が最上のガイドブックになる。