812話インドシナ・思いつき散歩  第61回


 魔都ビエンチャン 前編


 1973年から74年にかけて、ヨーロッパとアジアを鉄道で旅をしたアメリカ人作家が書いた旅行記が発売されたのが1975年、日本語版は『鉄道大バザール』(ポール・セルー、阿川弘之訳、講談社、1977)として発売された。その本の、タイのノンカイ駅から始まる章は、著者がその前にいたビエンチャンの描写から始まっていた・・・と書きたいが、例によってその本が今、手元にない。段ボール箱に入ってウチのどこかにあるはずだが、取り出すのは面倒だ。だから、40年ほど前に読んだ記憶だけで書く。まだベトナム戦争が続いていた時代のビエンチャンは、米兵の歓楽地だったという描写だったと記憶している。酒と女と麻薬の街が、1970年代当時のビエンチャンだった。
 それから20年後、私は1990年代のビエンチャンに行った。アメリカ人作家が描写した首都は、社会主義国の首都になり、しばしの鎖国のあと、「静まりかえる村」を外国人に公開した。私が見たビエンチャンからは、往時の退廃と狂気を感じ取ることはできなかった。料理が1種類か2種類しかない食堂が何軒かあり、安宿が何軒かあった。レストランと呼べるような飲食店は、ホテルの外では1軒しか記憶にない。市場に行くと、焼きなまずなど、おかずを売る店は何軒かあったが、食堂は麺料理を売る店が1軒あっただけだ。この国の首都は、対岸のタイのノンカイよりも小さい。タイの小さな地方都市よりも、田舎っぽかったのである。
 あれから20年、ビエンチャンはすっかり変っていた。ルアンパバンからバスでビエンチャンに来て、夜の街で安宿探しをしていると、街角で客待ちしているトゥクトゥクの運転手が声をかけて来た。
 「Hey , tuktuk!, Lady! , Marijuana! , Hashish!」
ひとりやふたりではない。街角で客待ちする男たちすべてがポン引きであり売人だった。うるさい。目障りだ。まるで、ベトナム戦争時代じゃないか。バンコクサムロー(三輪自転車のタクシー)が禁止された理由のひとつが、サムローの運転手はポン引きと売人の代理人を兼ねており、公序良俗に反する行為だとされたからだ。
 ポン引きと売人をくぐりぬけて探したホテルの部屋は、掃除をした形跡がなかった。枕元で隣家のエアコン室外機が爆音を撒き散らしていて、とても寝ていられないので、宿の男をたたき起し、部屋を代えてもらった。そんな宿でも、タイのカネにすれば1000バーツ以上する。バンコクの安宿よりも高い。
 街が動き出すとともに起きだして、散歩をした。準備を終えた食堂で朝食。バゲット、目玉焼き、コーヒーのセット。コーヒーはタイと同じ布フィルター。バゲットはうまくない。日本のスーパーで売っている、ビニール袋入りのバゲット風パンに似て、ふにゃふにゃとやわらかい。「ラオスベトナム朝飯」という企ては、ルアンパバンに次いでビエンチャンでも失敗。ラオスのもち米飯も、うまくはなかった。しかも、バンコクで食べるよりも、高い。
 偽凱旋門ことアヌサワリー・パトゥーサイや朝市場(タラート・サオ)など、記憶に残る場所に行ってみたが、感慨はない。Jomaのビエンチャン店があったので、日記を書くために立ち寄る。ルアンパバン店と同じコーヒーなのだろうが、うまいとは思えない。自分の味覚に自信がないので、「うまい、まずいは気のせいだ」としておこう。
 ビエンチャンで唯一気に入ったのは、本屋だ。旅行者がここに流れ着いて始めたに違いない古本屋も、なかなかの品ぞろえだったが、何といってもモニュメントブックスがピカ一だ。1993年にカンボジアプノンペンで開店して以来(開店当時に行っている)、ラオスビルマにも支店がある。ルアンパバン店はすでに行ったが、ビエンチャン店は今回が初めて足を踏み入れた。そして、「もしかして、東南アジアいちばんの書店かもしれない」と思った。「いちばん」というのは、「いちばん居心地がいい。いちばん好ましい」という意味だ。装飾が凝っているわけではない。由緒ある建物でもない。ただの書店で、棚の見せ方に特別の工夫があるわけではない。ただ商品を並べているだけの店だが、店主の気遣いがわかる。本と密接な関係を続けてきた玄人好みの店だ。ラオス関連の新刊書なら、おそらく世界一の品揃えだろう。ポン引きと売人の街に、気品あふれる書店という取り合わせが印象的だった。この謎を読み解くと、カンボジアにしてもラオスにしても、国際団体や援助団体などの職員が多く、研究者の訪問も多いから、「現地を知りたい」という知的好奇心が強く金銭的に余裕がある外国人がいるからだろう。ビーチリゾートがないから、客層がタイの観光客とは違う。
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