828話 机の上の本の山 その1


 本を読み終えたら書棚かゴミ箱か、しかるべき場所に置くのだが、机の上に置いたままにしていることもある。それは、まず、未読了の場合だ。読み始めたもののもう一歩リズムに乗れず、かといってどこかにしまうという気にもなれず、そのまま机に置いておく。あるいは、ちょうど調べ物をしているテーマに関連することで、何度か見直すことがあるだろうと思われる場合だ。そして、このコラムで紹介する予定で、本棚に収めない場合だ。机の上を離れるとその後のゆくえがわからなくなることがあるから、文章にするまで、そのまま机の上で過ごすことになる。そういう事情で、机の上には本の山がいくつもできている。
 長らくベトナムの旅物語を書いていたせいで、インドシナ以外の本を紹介する機会を逸して、文字通り「積ん読」(つんどく)状態になっている。ちょうどいい機会だから、この際、片っぱしから紹介して、机の上の整理をしよう。
順不同、本の山の上から行く。
 『なんのための日本語』加藤秀俊中公新書、2004)は、何かの本、たぶん言語学関連の本を読んでいて、注か引用部分で紹介していた本で、読みたくなって注文した。全体は読まず、引用された部分の前後を読んだだけだと思う。今、ちょっと読んでみると、なかなかおもしろそうだ。改めて読まないと。
 『もっとにぎやかな外国語の世界』黒田龍之助白水社、2014)は、基礎の基礎レベルの外国語の話だから、とくにどうということもなかった。書き込み、付箋なしだから、可もなく不可もなくという証だ。ウチの本の場合、「きれいなまま」になっている本は、「可もなく」か、「つまらん」のどちらかだ。
 『ホルモン奉行』角岡伸彦新潮文庫、2010)は、日本各地と外国の内臓料理紀行。類書はあまりないが、知りたがりの私には内容とそのレベルは食い足りないが、一般読者向きとしては上出来だろう。「それは本当?」と書き込んだのは、「豚の内臓は、少なくとも私が住む大阪では食べる機会は少ない」と書いているのだが、インターネットで検索すれば、「大阪焼トンセンター」初め、豚の内臓料理を出す店は見つかる。もうひとつの疑問あるいは驚きは、関西のいくつかの屠場では、「豚のホルモンすべてがゴミ箱行きか、脂の専門業者に引き取られていくのを見た」という。関西の食文化用語で「ホルモン」とは、おもに牛と豚の、内臓や頭部、筋など肉以外の部分をさす言葉だ。関西の誰かが、「放うるモン(捨てるもの)やからホルモンや」といったようで、一部の学者はこの説を信用して論文を書いた。食えるものを捨てるわけはないと思っているのだが、大阪では豚のホルモンは捨てている? ホントウ?
『母をお願い』(申京淑、集英社文庫、2011)はすぐに読むのをやめた。小説はやはり読めない。『母 オモニ』姜尚中集英社文庫)を読み始めて64ページで止まっている。調べ物に必要なほかの本を読み始めて、続きを読むのを忘れていた。
 旅行記は、私の研究分野のひとつだから、ついつい買ってしまうのだが、『いつも旅のなか』角田光代、角川文庫、2008)は、買っただけで読んでいない。西原理恵子ヤマザキマリなど何人かを除くと、女の文章と相性が悪い。『藤村文明論集』十川信介編、岩波文庫、1988)は、大正から昭和初期の海外旅行記を読んでみたいと思って買ったのだが、これは旅行記ではなく紀行小説のようで、深入りできず。『欧米の旅』野上弥生子岩波文庫、2001)全3巻の「上巻」は100ページほど読んだ。1938〜39年の海外旅行記だ。その100ページほどが、アジアの船旅で、そのあとエジプト編に入るとので、止まったままになっている。田中真知さんなら興味深く読んだかもしれないが、私は「この先は、またいつか」と思って、ほかの本に浮気してしまった。久しぶりにまた手にすると、旅のこまごまとした事柄も書いてあり、しばらく読んでしまった。だから、棚に送れないのだ。
 ニセ科学を10倍楽しむ本』山本弘ちくま文庫、2015)は、「ニセ科学」とか「エセ科学」とか言われる類のもの、例えば、「水は文字が読める」とか「血液型で性格がわかる」とか、あるいは文部科学省お気に入りの「江戸しぐさ」の話(これはニセ歴史)などを、調べて論じている本。でも、ニセ科学は信仰にも似て、信じてしまった人は、真実なんてどうでもいいのでしょうね。あるいは、信じてくれる人がいるから大儲けできるという業界が、宗教や健康食品や出版業界などモロモロの分野にあるから、真実には触れない方がいいと思っている人も少なからずいる。