931話 イベリア紀行 2016・秋 第56回

 韓国人夫婦

 セゴビアでバスを降りた乗客は10人ほどだった。私よりもだいぶ前を歩いている中年夫婦は、「さて、どっちに歩いたもんだろう」と迷っているふうで、日本人かもしれない。黙って通り過ぎるのは失礼かと思い、「おはようございます」と声をかけたら、英語の返事が返ってきた。「観光案内所は、こっちですか?」
 日本人じゃなかったのか。近づいて夫婦の会話を聞くと、韓国人だとわかった。そのころには、例の水道橋が向こうに見えてきて、案内所はその下にあることは地図で確認してあるので、その情報を伝えた。セゴビアは小さな街だから、街角で何度か顔を合わせ、「やあやあ、また会いましたね」とあいさつして別れ、また出会うというようなことをした。
 イカスミのパエジャ(パエリヤ)の昼飯を食べて、散歩をして、コーヒーを飲んで休憩して、マドリッド行きのバスに乗ったら、あの韓国人夫婦が私の隣りの席に座っていた。
 「なんとまあ、また会いましたねえ」という何度目かのあいさつのあと、マドリッドまでの数時間を雑談で楽しんだ。
 この夫婦の旅は、かなり変わっていた。全行程15日間の旅で、最初の5日間を夫婦だけでマドリッドとその近郊を旅し、そのあとを韓国から来た旅行団と合流して、アンダルシアとポルトガルを旅するのだという。定年退職者の年齢よりはちょっと若そうで、写真家とか画家とかいった自由業には見えない夫婦の、15日間の海外旅行というのは、どういうものなのかわからない。プライバシーにかかわりそうなので、相手が私のプライバシーを聞いてこない限り、こちらからは聞かないことにしているので、相手の職業や旅行団の参加者の素性は何も聞かなかった。
 韓国人夫妻は、日本には何度も行ったと言った。東京や京都はもちろん、北海道も九州や広島にも旅したという。
 「だから、この次は、山の中の小さな村とか、あまり観光化されていない場所に行きたいんですが、私は日本語ができないので、難しいんです」という。その通りだろう。
「日本は、韓国と同じくらい英語が通じませんからね。都会でも怪しいけれど、田舎に行ったら、英語の会話はまずダメでしょう。それはそうと、かねがね不思議に思っているんですが、真冬に韓国人が沖縄とかグアムに行きたがるというのならよくわかるんですよ。しかし、真冬に極寒の韓国から、極寒の北海道に行きたがる理由が、かいもくわからないんですよ、私には。とにかく、寒いのが大嫌いなもんで・・・」
 「北海道の雪景色の美しさは格別です」
 「韓国にだって雪はあるでしょ。冬季オリンピックをやるくらいですから」
 「韓国でも雪は降りますが、冬の北海道の美しさとは比べ物になりません」
 韓国人が北海道を大好きになったのは、北海道を舞台にした映画「Love Letter」(1995年 岩井俊二監督)がきっかけだ。この映画が韓国で公開されたのは1999年だった。
 ソウルでオリンピックが開かれたのは、1988年。その翌年の1989年に、韓国では海外旅行が自由化された。それまでは外国に行く許可が出たのは特権者を除けば、高齢者に限られ、しかも供託金を納める必要があった。規定の日にちまでに帰国しない場合は、供託金は没収されるという制度だった。だから、「Love Letter」が公開された1999年の韓国は、北海道がただのあこがれの場所ではなく、実際に行ける場所になっていたのだ。そして、韓国人は冬の北海道に出かけた。いや、今も、行く。北海道は、特別なブランドだ。
 「初めて外国旅行をしたのは、いつですか?」
 やはり、こういう質問をしたくなった。
 「1990年の香港でした。それからしばらくして、アメリカ駐在員になったので、4年間ニューヨークにいました。」
  だから、けっこう英語がしゃべれるのだ。
 「ということは、ニュージャージーに住んでいたということですね」
 「ええ、大きな家に住んでいましたよ」
 「1990年代のニューヨークなら、ロサンゼルスほどじゃないにしても、大きな韓国人社会ができていて、食料品などで不自由することはなかったでしょ」
 「ええ、なんでもありましたね。韓国人がすでに何万人も住んでいましたからね」
 突然、外国に出た韓国人の食生活が気になった。
 「そういえば、今回の旅ではコチュジャン(トウガラシ味噌)は持ってきました?」
旅行に便利なように、チューブ式コチジャンもある。
 「いや、コチュジャンは持って来ていないけれど、ラーメンは持って来ました。カップのヤツをね」
 それからしばらくラーメン談義をした。私は「辛ラーメン」に違いないと思い、「どうです、私の勘は当たるでしょ」と自慢したかったのだが、「いや、別のラーメンです」と言われて、肩すかしを食らった。熱心に語った彼のラーメン話をまとめると、「コチュジャンがなくても旅はできるが、ラーメンがなくては生きていけない」と要約できる。韓国人が言う「ラーメン」とはインスタントラーメンのことだ。日本のテレビドラマで、インスタントラーメンを食べるシーンはあまりないが、韓国ドラマならいくらでも出てくる。
 車窓の景色はおもしろくなかったから、ずっと雑談をしていた。
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 セゴビアのアルカサール。