1352話 日本の英語教育 その3

 英語を使わなければならなかったころ

 

 子供のころ、外国で育ったわけではない。父の仕事の関係で、子供のころからしばしば外国人が家に出入りしていて、子供の私が接待していたということもない。留学したこともない。夢中になって英語を勉強する英語大好き少年ではまったくなかった。ECCのような英語クラブに入っていなかった。高校の「英語できないクラス」に仕分けされ、そのなかのさらに英語できないグループに入っていた、極めてできの悪い高校生だった。中学生時代から、いつか外国に行こうと思っていたから、英語は必要だと思っていたし、英語が嫌いだったわけではない。高校時代の英語の成績がひどかったのは、受験英語の授業がつまらなかったからだ。

 高校を卒業して3年後、わずかばかりのカネをため、やっと日本を出た。旅行をするのに最低限必要な英語は使えるとわかった。旅先では、下手は下手なりに英語をしゃべった。聞き取りには苦労したが、聞きたい旅行情報は聞き出すことができた。ボランティア活動の後インドに住み着いたというアメリカ人の家に泊めてもらい、毎日数時間おしゃべりもした。

 ひどい英語をしゃべっていたことは自分でももちろんわかるから、帰国して英語の復習をやることにした。中学の英語を復習するために、高校受験用のテキストを買って復習した。旅行先の会話なら、とりあえず中学英語をしっかりやり、あとは旅行でよく使う英語、例えばtransit、transfer、accommodation、bookingなどといった単語を覚えつつ、語彙を増やしていけばいいと思った。その考えは今も変わらない。

 あのころの日本人旅行者は、程度の差はあれ、英語をしゃべった。中南米に行った旅行者は、スペイン語をしゃべった。しゃべらないと旅行ができなかったからだ。

 あの頃は・・・

 まだ、ロンリープラネットのような英語の旅行ガイドブックは誕生していなかった。

まだ、「地球の歩き方」は出版されていなかった。交通公社のガイドブックは、私の旅の参考にはならない。

 まだ、日本人旅行者は少なかったから、日本人から情報を聞き出すにしても限度があった。

 当然、まだインターネットなどなかった。

 いくら欲しくて、ガイドブックなどないのだから、誰かから旅行情報を得るしかない。インド旅行を思い出す。どこかの駅に着く。ホテル情報など持っていないから、駅前で客待ちしているリキシャ(三輪自転車)に、「この近くの安宿ヘ」などと声をかける。安宿に着いたら、旅行者や宿のスタッフから旅行情報を教えてもらう。

 バリ島のクタに着いたら、村を歩いている旅行者に声をかけ、適当な宿泊先を教えてもらった。バリに初めて行った1974年のクタは、まだゲストハウスはなく、看板もない民宿があるだけだった。まだ電気がなかったから、夕方になれば旅行者は宿に帰り、おしゃべりをして、たった1軒のレストランに行った。そのあとは、眠くなるまで宿でおしゃべりだ。

 フィリピンのボラカイ島でも、私が泊まっていたバンガローには電気が引かれていなくて、夜は経営者の家族や旅行者と話をしていた。

 ヨーロッパではヒッチハイクで移動していた。乗せてもらったら、運転手と世間話をするのは礼儀だ。

 私が下手は下手なりに英語をしゃべるようになったのは、そういう歴史があったからだ。その状況は、浅草仲見世の土産物屋のおばあちゃんと同じだ。必要だから、英語を覚えたのだ。

 日本人の同行者などいないひとり旅だから、旅先で情報収集以上の会話ができるのが楽しかった。買いたい物はないし、ぜひ見たい観光地など、実はない。世界遺産を見に行くよりも、誰かとしゃべっているほうが楽しいというのが私の旅だ。そんなわけで、いつの間にか英語でなんとか会話が成り立つようになった。英語を学ぶ努力は、まったくしてない。努力なしに覚えた英会話だから、いっこうに進歩しないのだ。