1353話 日本の英語教育 その4

 しゃべらないと、会話にならない。

 

 日本人の大部分は、中学レベルの英語を学べば充分だと私は思う。前回も書いたように、80点くらいは取れるレベルの英語力は、日本の中学卒業生全員で考えれば、それほど簡単なレベルではない。

 将来、英語で仕事をするようになりたいという人はそれではもちろん不充分なので、会話も含めた英語力は大学や英語学校や、あるいは独力で身につければいい。マンガやアニメが好きで、独力で日本語を覚えた若者は世界にいくらでもいる。日本人が独力で外国語を覚えることだって、同じようなものだ。肝心なのは、教育方法でも教育機関でもなく、「どうして、英語を読みたい、しゃべりたい」という熱意だ。大学入試に英語の会話力試験は必要ない。会話力が必要だと思えば、各自が工夫してやればいいのだ。

 英語教育推進者が誤解しているのは、英語を学べば、英語で仕事ができると思っていることだ。会議で発表し、質疑応答に耐える英語力が養えると思っているようだが、それは違う。

 小学校までアメリカで過ごしたという日本人タレントが、東京で外国人にインタビューするという番組があった。発音だけはアメリカ人のように話すタレントだが、インタビューにはならなかった。アメリカ人旅行者と話をしていて最初につまずいたのは、”pension”という単語だった。職業を聞いた時にでてきた単語で、タレントは考え込んでしまった。「山梨のペンション」というときのペンションではなく、ここでは年金という意味だ。タレントの頭にある小学生レベルの語彙には、この語はなかったのだ。次に会話が中断したのは、”nuclear power”という単語がアメリカ人旅行者から発せられた時だ。福島の原発事故に関する発言なのだが、タレントはこの単語を知らなかったのか、知ってはいるが会話を続ける知識がなかったのかわからないが、「わかんな~い」とカメラに向かっていい、そのコーナーは終わった。省略した”nuke”だったら、もっとわからなかったかもしれない。

 この教訓は、いくら英語の発音を訓練しても、会話を展開する知識がなければ会話にならないということだ。日本語でちゃんと学んでいないと、英語の文法や発音をいくら勉強しても、使い物にならないということだ。入試には役に立つかもしれないが、それだけのことだ。

 会話をするということは、好奇心があるということだ。誰かと会話をしたいという欲求と、会話が成り立ち展開できるだけの知識が必要なのだ。宿で旅行者たちと話をするとき、キリスト教イスラム教など宗教のことや、徴兵制のことや、広い世界の歴史や世界情勢といった基礎情報が頭に入っていないと、「おいしいアイスクリームの店は・・・」という情報交換だけで終わる。英語の文法や発音をいくら学んでも、しゃべる内容が頭にないと、会話が続かないのだ。

 英語力と会話力は違うという問題は、まだあるから、次回に。