1354話 日本の英語教育 その5

 言いたいことを言う

 

 私ひとりの経験ではなく、知り合いの大学教授たちに聞いても同じ感想なのだが、授業中、学生が積極的に質問をしたり、意見を口にすることはほとんどない。積極的に発言する学生がいないので、「はい、君。どう思う?」と聞くと、何か言うこともあれば、「わかりません」と逃げることもある。彼らは、教室ではできるだけ目立たないようにするという訓練が小学校からできているようなのだ。

 聞いた話なのだが、アメリカの大学では、授業中に質問や意見を言わない学生は、授業についていけないとみなされて、合格点がもらえないという。何も言わないのは、授業内容が理解できないからだとみなされるから、学生は無理をしてでもいろいろ言い、討論になる。

 アメリカのそういう教育環境で育った日本人の子供が帰国すると、日本の学校で「だから、帰国子女は文句ばっかり言ってんだよ」とか「自己主張が強い」とか「協調性に欠ける」などと非難される。だから子供たちは、優秀な公務員のように、「皆様と同じように」という姿勢で、授業中に発言しないのが安全だと考えるようになる。出る杭は打たれるから、出ないように身をひそめているのが安全な身の処し方なのだ。

 日本のそういう教育環境で育った者は、会社などの会議でもあまりしゃべらない。重要事項は根回しをして、すでに決めてある。上司に反論するなどもってのほかだ。談論風発は世間を騒がせると思っているらしい。そういう日本人がいくら英語を学んでも、会議で自分の意見を堂々と展開することにはならない。

 旅先で話をしていて、「日本人と初めてしゃべった」と言われたことが何度もある。ひと言ふた言、言葉を交わしたことはあっても、しばらくおしゃべりをしたことはなかったというのだ。英語がほとんどしゃべれないという人もいただろうが、英語ができても見知らぬ人と話をしたいという好奇心のない日本人も多かったのではないか。世界史の話や環境問題の話についていけないという人もいただろう。

 日本人の同行者としゃべっていればいい。あるいはスマホで遊んでいればいいという人もいるだろう。会話をするというのは、日本語か外国語かに関係なく、互いに、誰かと話をしたいとか、何かを言いたい、何かを聞きたいという欲求がないと成立しない。外国語をどんなに学んでも、たちまち会話ができるようにならない。他人と話をする気のない者は、外国語を学んでも会話は始まらない。

 こういう事実を、英語教育推進者は理解していない。

 英語のことだから、たった今思い出したことを書いておく。

 2018年9月8日、全米オープン・女子シングルス決勝で大坂なおみがセリーナ・ウィリアムスを破ったあとのスピーチで、大坂が「ごめんなさい」と謝罪したというニュースがラジオやテレビなどで何度も報じられた。ネットにまだ記事が残っていた。

https://www.fnn.jp/posts/00361110HDK

 これが誤訳だと指摘した人は、ほとんどいない。”I am sorry.”は「ごめんなさい」じゃない。例えば、友人の息子が交通事故で亡くなったとする。アメリカ人なら、葬儀の場で友人に”I’m sorry.”と声をかけるだろう。私が事故を起こしたわけじゃないから、「ごめんなさい」ではない。「残念です」、場合によっては「お気の毒に」、「ご愁傷様」などという意味なのだ。だから、大坂なおみのスピーチは、「あんな試合になって、残念です」という意味だ。開高健『戦場の博物誌』でも、同じ誤訳をしている。

 簡単な単語だと間違いやすい。Do you have time?とDo you have the time?の違いもその例だ。大学受験英語ではなく、中学レベルの英語をちゃんと学びましょうねという私の意図はこういうことだ。有名大学卒業者ばかりいる大手マスコミのスタッフだって、”I’m sorry”がわからなかったのだから。

 

  英語教育の話は、これで終了。またいつか、書くかもしれないが。