1906話 言葉は実におもしろい。地道に勉強する気はないけれど・・・ その17

 

口語表現

 高野さんは、「会話の授業では、しゃべりことばを教えろ」と何度も書いている。「私はおなかが減りました」ではなく、「ああ、腹減った」というようなしゃべり方を教えなさいという意味だ。

 日本で日本語をちょっと学んだことがある知り合いのタイ人は、持前の生真面目さもあってか、教科書の文章を読むような日本語をしゃべった。

 「コーヒー飲む?」と聞くと、「私はコーヒーは好きではありません」といったような返事が返ってきて、清水義範の『永遠のジャック&ベティー』を思い出した。教科書の英語を直訳したような日本語をしゃべるという小説だ。

 その友人の日本語を聞いていて気がついたのは、言いたいことを頭の中でまず英語に翻訳し、それを日本語に翻訳しているということだ。タイ語では「私は・・・」などといちいち主語を口にしないのに、日本語をしゃべるときに「私は・・・」と言ってしまうのは、頭の中でまず”I・・・“で始まる英語の文章を作ってから、日本語に翻訳しているのだと想像できる。

 しゃべり言葉は覚えた方がいいとは思うが、高野さんのようにそれを強く主張したいとは思わない。旅先で若いアメリカ人と会ったことがある。私が日本人だとわかると、「なあんだ、日本人かあ。わかんなかったよ」といきなりなれなれしくなり、その後に続く日本語が、青山や六本木で女の子をひっかけて遊びまくっていたぜという、チャラい日本語だった。自分は、こういうこなれた日本語もしゃべれるんだぜと自慢したいようだった。それは、もうだいぶ前の話だが、いまなら「パネー」(ハンパネー)とか「ヤバイ!」、「むずい」などといったタグイの語を多用する日本語だ。

 ハワイ取材に行った時のコーディネーターは、日系三世で、日本語を勉強するために留学したことがあると言った。会話調の日本語ができるのだが、彼の日本語が、「あら、そうなの? いやだー」というしゃべり方をする。けげんな私の表情に気がついたようで、「あっ、誤解しないでくださいね」と言って、留学生時代の話をしてくれた。東京の下宿先は、遠い親戚筋にあたる家で豆腐屋を営んでいた。そこの娘ふたりの英語教師をするという条件で、部屋代と食費が一切タダにしてもらったのだという。家では、ふたりの娘とその母親の女三人とよく話をしていたので、言葉使いやしぐさが女ぽっくなってしまったのだという。

 しゃべり言葉は、話し相手との関係性で変わってくるから、学校で教えるのは難しい。高校生が仲間内で使っているしゃべり方を、初対面の人にするとトラブルが起きることがある。

 ロサンゼルスで1年ほど遊んでいて、仲間との会話に熟達した日本人がいたとする。高校では習わなかった口語表現をたっぷり覚えた。例えば、go bananas(狂う)、It’s a piece of cake(簡単だぜ)、blackmail(恐喝、ゆすり)などという言い方が身についても、トルコや中国では、おそらく使えない。英語圏で使い慣れている「4文字言葉」を、英語圏以外で不用意に使うと、反感を買うかもしれない。英語圏以外で、英語があまり堪能ではない人と会話するなら、口語やスラングはかえってじゃまになる。教科書英語の方が通じやすい。

 今思い出したことをふたつ書いておく。

 ひとつは、疑問文。英語なら、”hungry?“というように、単語の語尾を上げて言うと質問文になる。日本語でも、「仕事?」「いや、今日は非番」という会話が成り立つ。しかし声調言語のタイ語の場合、「ヒウ」(空腹)を「ヒウ?」と発音すると、意味不明の語になってしまう。すべての語に、どう発音するかが決まっているタイ語では、「外国人の語尾上げ質問は頭が痛い」と、我がタイ語教師が嘆いていた。

 もうひとつは、「チャラい日本語」で思い出した、嫌な気分がした英語の話。話していたのは大橋巨泉。テレビのインタビュー番組でのアメリカ人との会話。やたらに”you know”を使うのだ。「・・・だろ?」、「・・・だよな」、「・・・だからよお」、「・・・ね」といったニュアンスの言い方で、親しい間柄ではよく使うが、あまりに使いすぎるとうんざりする。巨泉の英語は、その日本語をそのまま翻訳したようなものだから、偉そうでなれなれしいのだ。それはそうと、その巨泉が、永六輔の最晩年にアシスタントとなってテレビやラジオに出演したときはまったく違う口調になっていたのには驚いた。礼儀正しく控えめだったのだ。