1508話 あれから8か月 その10

  かつて、新大久保は、アジア料理を食べ、タイや中国の食材を買い出しに行く街だった。アジアマニアが通う秘密の地区という感じだったのだが、いつの間にか韓国食品街になり、韓国化粧品店街や韓国アイドルショップの街になり、女子高生がワイワイガヤガヤやってくる「韓国風竹下通り」になっていった。

  私はと言えば、そこは食材を買いに行く場所で、アメ横では手に入りにくい韓国食材や中国食材を買いに行く。いろいろな店で買い物をするうちに、気に入った店が決まっていく。今回もいつものように、韓国食品のスーパーマーケット「ソウル市場」に行き、キムパップ(海苔巻き)とパック入り白菜キムチ、煮た豚足、煮た豚耳、生イカのキムチを買った。いつもはアメ横で冷凍豚足を買うのだが、調理済みのものは新大久保で買う。豚足はチョッパルという。「とんそく」と言っても、豚の足と脚の別がある。足首の下か上かだ。昔は脚はあまり見かけず、もっぱら足を食べていた。東京の山谷や北千住といった場所の飲み屋にはゆでた豚足があった。新聞紙で包んでテーブルに出てきた。塩を振って食べた。

 新大久保では、煮込んだ豚足も豚脚も売っていた。豚脚はおそらく前足だと思う。豚の利用法に前足と後ろ足の区別があると気がついたのは、スペインの生ハムを調べているときだった。そもそもハム(ham)は、豚の腿のことだとは知っていたが、調べていて後ろ足の腿だと気がついた。前足はハムにするには細いのだ。ドイツ料理アイスバインは、前足を使う。

 いつのころからか、醤油で煮た豚足を真空パックにしたものがアメ横で売られるようになり、しばしば買って食べた。1本150円くらいだった。スペアリブかトウモロコシのようにかぶりつき、肉を食いちぎったせいで、前歯が2本欠けた。そのあとは差し歯にしたのでもう食いちぎることはできず、1本100円の冷凍豚足を大量に買い、圧力鍋でコツコツと煮て、ニカワのように、あるいはゲル状になったコラーゲンを口に運び、骨を吐き出す。牛筋同様これはこれでうまいのだが、皮や筋だけでなく肉も食べたい。昔のようにゆでた豚足にかぶりつくには、数百万円かけてインプラントにするしかないのだろう。ああ、遠き日の、豚足とスペアリブのかぶり食いよ。

 アメ横センタービル地下食品街には、豚足の冷凍と真空パックの煮込みはあるのだが、豚脚の煮込みがない。足首から上の脚部分は、生では1本売りしているが、私には大きすぎる。だから、豚脚が欲しくなると、新大久保に出かけるというわけだ。

 沖縄の「あしてびち」も豚足だが、脂を抜いてあっさりした味付けなので、物足りない。沖縄の食材店では、耳の煮込み「ミミガー」や顔肉の煮込み「チラガー」を買う。そのまま細切りにしてキュウリやネギやキムチと和えるか、タマネギやニンニクの茎といっしょに炒めるとうまい。

 豚足といえば思い出すのは、香港の海岸。その昔、香港には貧民夜想會という名の屋台街があった。その近くの岸辺で、夕方になると鍋を乗せた七輪を持ったおばちゃんが現れた。歩道上に七輪を直接置き、そこにアルミの鍋をのせている。鍋の中をのぞくと、キラキラと醤油色に輝く豚足だった。大量のショウガの薄切りが入り、酒と砂糖と醤油で、何時間も煮込んだものだとわかる。「ぐにゅぐにゅ」というのは食べ物の描写としてはうまさを感じさせないだろうが、豚足だけは別で、コンクリートに座り込んで、その豚足煮込みを食べた。

 そんなことを思い出しながら、豚足やキムチを手に下げて、山手線の電車に乗った。