1581話 カラスの十代 その14

 

 高校の卒業式の翌朝早く、ヤツといっしょに建設会社の事務所に行った。社長にあいさつすると、「今から仕事をすればいいさ」ということで、すぐさま建設作業員になった。建設業の朝は、早い。まだ7時過ぎだが、作業員はすでに来ていて、8時前に現場につけるように準備をしていた。

 作業員といっても、私に何かの技術があるわけではないので、雑用係である。「持って来い」と言われた物を届け、「片付けろ!」と言われた物を片付け、反日穴を掘っているといった作業だが、野外で肉体を動かしているのは楽しかった。こういう仕事は、自分に合っていると思った。ちょっと前まで、「カラスが嫌だ」と思っていたが、工事現場の男の世界は楽しかった。

 我々作業員(私以外のプロは、正確には職人と言った方がいい)は、工務店の仕事として一応何でもやるのだが、基本的には鳶(とび)の仕事だった。鳶の仕事は高いところで仕事をするのだが、小さな工務店では、足場工事や棟上げ、そして基礎工事もやった。常に一定数の作業員を抱えているので、作業内容にかかわらず、社長はさまざまな仕事をとってきた。仕事に慣れてくると、木造住宅の解体作業もやったし、鉄筋を組む作業もやった。家をそのまま移動する曳家(ひきや)の手伝いもやった。いろいろな組の作業員が協力してやる作業で、「お宅んとこの、若い衆、だいぶ変なのを集めたんだなあ」と我が親方に話している声が聞こえた。私は肩よりも髪が長くなっていたし、もうひとりの若者は五厘刈りにしていた。どんな格好をしていようが、仕事をちゃんとしていれば文句は言われない。学歴も賞罰も関係ないが、「ケガと弁当は手前(てめー)持ち、注意しろよ!」とよく言われた。

 私を現場に連れてきたヤツは、いっしょに一週間ほど働いただけで、「オレ、デートが忙しいから」と言って、仕事を辞めてしまった。デート費用を稼いでいただけらしい。現場の先輩たちは皆すばらしく優しい人ばかりで、つらいことは何もなかった。そこで働き、カネができると本を買い、国内旅行をして、しかし「そんなことにカネを使っていたら、外国旅行の費用は貯まらないぞ」と反省し、また地道に働いた。

 早朝の高田馬場や山谷などで、いわゆる「たちんぼ」をして、手配師からの仕事を待てば、かなりの高給を得ることができたらしいが、毎日確実に仕事があったわけではないし、仕事の内容も安全第一と言うものではなかったらしい。それに比べれば、私の仕事は安かったが、毎朝事務所に顔を出せば、何かしらの仕事があった。雨の日でも、倉庫の片づけなど雑用があり、日給を払ってくれた。日給は安いが、ウエイターの日給の5割増しほどで、仕事はいつもあった。

 真夏は足場の鉄パイプが熱くて持てなくなるほどだが、午前の仕事が終わったら、飯を食い、水を浴びて、日陰で昼寝をするのが気持ちよかった。氷雨降る冬は、指がかじかんで物が持てなくなるが、石油缶の焚火で指を温めて働いた。

 現場でさまざまな職種の人たちに会った。大工をはじめ、電気工事や水道・ガス、内装や建具屋などは、実に見事な職人技を見せてくれた。中学卒業後、職人修行を続けて一人前に成長したという人もいたが、バクチで身を持ち崩し、あちこちに借金を作り、現場で問題になっている職人もいた。一流大学を出て、一流企業のサラリーマンになったものの、競馬で借金を作り、会社にいられなくなり、トラックドライバーとして人生をやり直そうとしている人もいた。もっとも、その手の話は職人たちの噂話だから、どこまで本当の話なのかわからない。後年、建築の本を買い漁って読むようになるそもそものきっかけは、この時代の体験に深く関係があるのかもしれない。有名建築家の記念碑的建造物などよりも、設計者の名もわからない世界中のその辺の住宅に興味を持つのは、かつて住宅建築にかかわったからかもしれない。

 仕事は楽しく、精神的にも快適だったが、高所恐怖症の男が高所で作業をする鳶の仕事はやはりおそろしく、「このまま仕事を続けたら死ぬ」と感じて、数年後に地上の仕事に変わった。