1607話 本で床はまだ抜けないが その15

 マンガ 1

 

 マンガをあまり買っていない。少年時代からそうだ。理由は簡単、30分で読み終えるマンガを次々に買ってもらえる財力がなかったからだ。私は昔の幼稚園児だったから、小学校入学以前は読み書きができなかった。それでも、近所の友人が持っているマンガを読むふりをしたのは覚えている。小学生になって、『赤胴鈴之助』を買ってもらったのがうれしくて、そのマンガを膝にのせて撮った写真が残っている。

 小学生時代はマンガ雑誌が月刊誌から週刊誌に変わる時代だった。1950年前後に創刊された「少年画報」、「少年」「少年クラブ」「冒険王」は、別冊ふろくなども魅力で、年末か正月に1冊だけ買ってくれた。私は「少年画報」が好きだったが、ほんの数冊読んだだけだ。クラスにはマンガをたっぷり買ってもらえる家庭の子がいて、貸してもらいたい子供たちからちやほやされていたが、私はコビを売って近づき、「ねえ、貸して、お願い」と、ニコニコしながら仲良しのふりをする屈辱に耐えきれず、本屋で立ち読みしておばさんに怒られ、しかたなく、その当時まだ残っていた貸本屋で、時々借りて読んでいた。1泊2日で10円か20円だっただろうか。よく借りていたのが『忍者武芸帳』(白土三平)だった。その貸本屋は、数年の営業で文房具店に変わった。かつては団地の中に貸本屋があったのだ。

 中学生になると、神田神保町に通うようになり、マンガは読まなくなった。ふたたびマンガ雑誌を手にするようになるのは、建設作業員の収入が入るようになった20歳前後だ。「漫画アクション」や「ビッグコミックオリジナル」などを買って読むようになるが、マンガと同じくらいコラムが好きだった。「漫画アクション」で、呉智英関川夏央南伸坊阿奈井文彦などの名を知る。幸せにも、20代なかばになって、ちょっとした縁で関川さんと何度か会うことになった。世間的には、まだ「まんが原作者」としてしか知られていないころだ。そのころから、ライターや小説家や学者と出会うのだが、マンガ家と話をしたのは、永島慎二だけだ。20代末だった。

 マンガ少年にならなかった理由は、ひとつには財力の問題だ。少年時代によくマンガを読んでいた少年は、おぼっちゃまか、本屋やラーメン屋か床屋の息子たちだろう。私はそういう境遇の子供ではなかったから、マンガに溺する日々はなかった。マンガをそれほど多く読まなかったもうひとつの理由は、小説をあまり読まない理由と似ているかもしれない。私はノンフィクションが好きだから、フィクション性が高いと読む気がしなくなるのだ。だから、「そんな設定、あるわけないじゃない」と言いたくなる内容だと、初めから読む気がしない。だからといって、なんということもない学園モノも読む気がしない。とはいいつつ、もしもあの頃、親がいくらでもマンガを買ってくれたら、毎日マンガに身を沈めたと思う。

 マンガの困ったところは、全20巻とか35巻とか長いものが多く、全巻買うとかなりの出費になることがひとつ、もうひとつは置き場所に困るということだ。この「本で床はまだ抜けないが」というコラムの初回、ライターの西牟田氏は執筆に必要な資料を「毎年100冊以上も買うようになった」と書いている。「そんなに多く」といいたいのだろうが、マンガをよく買う人なら、100冊なんか大した量ではないはずだ。マンガ喫茶などで読む人は、マンガが部屋を占領するということにはならないが、マンガは買って読むという人は、適宜売却を考えないと、たちまち居場所を失う。

 『美味しんぼ』は何冊も買っているが、資料として買い、「この、出来損ないめ!」と思ったことを、この「アジア雑語林」に書いて、すぐ捨てた。どういう文章を書いたか知りたかったら、「アジア雑語林」のページの右にある「検索欄」に「美味しんぼ」と記入すれば、10件以上の書き込みが見つかる。

 マンガの話は長くなりそうなので、何回か続けることにする。