1682話 日本語人 その1

 

 昨年末に、ライターの前原利行さんに格安航空券業界史を書いてほしいと書いた。その前原さんから返信があり、「その業界には興味がないので、あしからず」ということだった。執筆は断られたが、私の研究資料として『地球の歩き方30年史』(峰如之介、ダイヤモンド・ビッグ社、2009、非売品)を送っていただいた。感謝。重要資料だが、難を言えば紙が厚くて読みにくい。

 旅行史研究資料は市販しても売れないと版元が判断したのだから、私が興味を持つ分野は、やはりマイナーなのだ。格安航空券業界史は、元業界人ならたやすく書けるテーマなのだが、今まで誰も書いていないということは、重要な話だと認識されていないということだ(とはいえ、拙著『異国憧憬』や『旅行記でめぐる世界』は、論文で引用されることは少なくない。それほど資料がないということだ)。誰か、『格安航空券業界血風録』を書いてくれないかなあ。

 というわけで、今年も、ほとんどの人には興味のない話を書くことになりそうだ。

 

 日本語で教育を受けた台湾人を「日本語人」と呼ぶのは、誰の命名でいつから使い始めたのかはわからない。私が初めて目にしたのは『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人―台湾人の夢と現実』(若林正文、朝日選書、1997)だったと思うが、はたして若林の命名なのだろうか。「わからない」と書いて先に進もうかと思ったが、本棚の台湾書の段にその本があるかどうか調べてみたら、本棚の最下段にあった。「おもしろかった」という読後感のある本だが、ページをめくってみると、付箋を貼った部分に批判的な書き込みがいくつかある。

 それはともかく、「『日本語人』の子供たち」という章を読むと、日本語人とはどういう人たちなのかと著者に説明する台湾人の話が出てくるので、若林の造語ではなく、日本時代を生きた台湾人が、自分を表す語として言い出した語らしい。ただし、韓国人の場合は、この語は使わないような気がする。

 1970年代から台湾を旅しているので、日本語人たちにはよく出会い、話をした。終戦の1945年に20歳だった人でも、1975年にはまだ50歳の現役世代だった。日本語人たちの日本語を耳にした日本人は、「なんと美しい日本語が残っているのだろう」という驚きを受けたようだ。じつは私もそのひとりで、日本語人の日本語についてときどき考えることがある。

 日本語人の日本語が美しいと感じるのは、それが生活言語ではなかったからだ。教室で習った「ちゃんとした日本語」がそのまま保存されていたからだ。台湾の日本語は教育言語で、共通語を持たない少数民族を除けば、日本語は学校で教師と、街で日本人としゃべるときにしか使わない言語だった。例えていえば、日本人が学校で習う英語と同じで、ていねいな、ちゃんとした英語だ。けっして放送では使えないFワード(4文字言葉)だらけの会話や兵隊言葉など俗語卑語を混ぜたアメリカの会話英語は、日本の学校では習わない。それと同じで、台湾の学校で教育された日本語は、「あの方は、もうおでかけになりました」であって、「もう行っちゃったよ」ではない。この話を書いていて、清水義範『永遠のジャック&ベティー』を思い出した。あるいは、日本語を学んでいるタイの友人のことを思い出した。教科書のちゃんとした日本語を暗記してしゃべるので、NHKのインタビューを受けているような日本語会話になる。「それでさあ・・」といった日本語はしゃべれないのだ。

 1950年代の日本映画を見ていると、今はもう消え去った日本語を聞くことがある。お嬢様の日本語だ。

 「そんなこと、おしゃったらいけませんわよ」

 「ほんとにもう、ご機嫌でいらして」

 「あなたのおみ足、とっても美しくていらっしゃって・・・」

 東京の山の手、名門女学校の卒業生が使いそうなこういう言葉使いは、激動の1960年代に入ると映画からは消え、テレビでも聞かなくなった。現在でもこういう日本語を使っているのは、インチキ臭いがデビ夫人語であり、真正お嬢様である黒柳徹子(1933~  )くらいだろうか。兼高かおる(1928~2019)の日本語もお嬢様ぽかった。そういう類の日本語を「正しい日本語だ」として台湾の名門女学校で教育したのではないか。

 私が台湾で耳にした日本語は、石坂洋二郎原作の映画にでてくるお嬢様ことばではないが、どこかに気品があり、ずっとあとになって小津安二郎の映画の、原節子香川京子の日本語を聞いて、「ああ、こういう日本語だ」と気がついた。きちんとした教育を受けた1950年代の女性の、きちんとした日本語を感じさせる。

 台湾のどこの街だったか忘れたが、小さなホテルのロビーで編み物をしていた母と同じくらいの年齢の、「ご婦人」という言葉が似合いそうな人としばらく世間話をしたことがある。その街の日本時代の話や学校での授業内容とか、さまざまな話をしたあと、宿の従業員のまかないの仕込みも手伝わせてもらった。話の内容はよく覚えていないが、「美しい日本語」だったことはよく覚えている。空心菜の枝を下に引き抜き、皮をむくのを教えてもらったこともおぼえている。この野菜を初めて知ったのは、この台湾旅行のときだった。東南アジアでも見ているはずだが、1970年代の私の知識は野菜にまで及んでいなかった。