1828話 時代の記憶 その3 洗濯機

 

 ウチにテレビが来たことを、母が大喜びしたという記憶はないが、洗濯機については何度も「うれしかった」と言っていた。

 「洗濯がつらい」といっても、冬の水が冷たいからだろうという程度にしか考えていなかった。もちろん、それだって大変な苦労なのだが、冷水での洗濯や食器洗いの苦労は、私にはわからなかった。あのころ、多くの日本人は「しもやけ」に苦しめられていた。

 のちに、バンコクで暮らすようになって、母の話がよくわかった。

 バンコクで暮らしていた1990年代、バンコクに住むタイ人の洗濯事情は、手洗いか、使用人に洗わせる、洗濯屋に依頼するかのどれかだったと思う。家庭用洗濯機はあるが、そういう電気製品を買えるだけの高額収入を得ている者は家庭に使用人がいるから、わざわざ洗濯機を買う必要がない。洗濯機を買い始めたのは、洗濯屋のない郊外住宅に住む若夫婦や、ボツボツと建ち始めた高層マンションに住む外国人家庭だったかもしれない。二層式洗濯機を何台か置いたコインランドリーが姿を見せるのは、私の記憶では1990年代末あたりかもしれない。私の生活圏外の事情は、もちろん知らない。すぐ近所に、コインランドリーは見かけなかったという意味だ。

 バンコクで手洗い生活をやるようになってわかったのは、洗うという行為はそれほど大変ではないということだ。毎日、ただ散歩しているだけだから汗は大量に吸っているが、汚れはほとんどない。下着などはモミ洗いでいい。ジーンズはブラシをかければいい。

 やっかいだったのは、すすぎだ。泡だらけの洗濯ものをよく絞り、水洗いする。文字にすればこれだけのことだが、シーツやシーンズは強く絞れない。泡だらけのままだと、何度すすいでも泡が残る。今は知らないが、あのころのタイの洗剤は「泡は多く出る方が、より洗浄力がある」という信仰があったように思う。日本では、川の水質浄化のため、できるだけ泡の出ない洗剤の開発が進められていたのだが、タイはまだ「より多くの泡を」の時代だったから、洗濯物から泡を消すのが苦労だった。すすぎを終えても、強く絞れないから、ポタポタ水滴が落ちるまま、洗濯ロープに吊るすことになる。それでも、乾季のバンコクの気温と湿度なら、あまり絞ってないシーツでも、1時間もかからずに乾いた。

 ひるがえって、母は左手の握力は極端に弱く、洗濯物を絞ることが難しい。洗い、絞り、すすぎ、絞り、水を替えてすすぎ、絞り、干すという行程がつらいうえに、真夏以外の日本の気候では、水滴が落ちるような衣類は戸外に干してもなかなか乾かない。

 そういう日々を過ごしていたから、のちに「洗濯機がありがたかったのよ」と話していたことがよくわかる。洗濯機を回している間にほかの仕事ができる。洗いが終われば、ローラー式の絞り機で絞る。不自由な左手は添えるだけで、右手だけで絞れる。両手が自由に使える者でもこれほど強くは絞れないというくらいに、この絞り機が役に立った。

 ちなみに、ウチでは今も二層式洗濯機を使っている。数年前に洗濯機が壊れたときも、「次はいよいよ全自動を」とはまったく考えなかった。ウチにはシルクもウールもないが、色落ちするものを洗うときは、別洗いが簡単にできるから、全自動を選ばなかった。自動車でいえば、マニュアル車を選んだようなものか。

 男女共同参画局の資料では、「電気洗濯機は,昭和32年には都市部でさえ20.2%の普及率であったものが,約10年後の45年には農村部まで含め91.4%の普及率となった」とある。1950年代末に洗濯機を使っていた母は、世間的には少数者だったことになる。おそらく、母が強くねだったのだろうが、それにこたえた父の愛情だったのだろうか。