高野さんはコンゴの言語事情に言及し、その国で使われている言語は、ご近所で使っている言語があり、もっと広い地域で使っている言語があり、全土で使われる共通語的なものがある「言語の三階建て」説の説明をしている。
国内で広く使われている共通語や公用語を考えるのは、日本に住んでいるとよくわからない「国家と言語」というテーマに、いい刺激を与えてくれる。
日本の共通語(共通語と標準語の区別の話は、ここではしない)を作るという小説が、井上ひさしの『国語元年』だ。では、歴史的事実はどうだったかという話を、大学の授業でやった。まず例にあげたのがインドネシアだ。
今、インドネシアと呼んでいる島々は、オランダに占領されて植民地となったが、オランダは積極的にオランダ語教育は行わなかったので、オランダ語が共通語にはならなかった。そのオランダを駆逐して日本が占領し、日本語教育を行なおうとしたが、短期間の占領であり、島が多いということもあって、日本語が共通語になることはなかった。
1949年にインドネシアとして独立したが、それまで「インドネシア語」というものが確立していたわけではない。独立国家ができたので、共通語が必要になった。多くの国では、首都で使われている言語が共通語になる。標準的な中国語は北京で使われている言語をもとにしている。フィリピンのタガログ語も、マニラの言葉であり、タイ語もバンコクで使われれている言語を、標準タイ語としている。そういう習わしなら、インドネシアの首都ジャカルタで使われている言語を共通語にすることになるはずだが、そうはならなかった。ジャワ島の言語事情は、島の中部から東側がジャワ語地域、西側はスンダ語地域なのだが、ジャカルタがあるあたりは飛び地のようにジャワ語地域だ。だからといって、「ジャワ語を共通語に」というふうにはならなかった。ジャワ語は敬語が非常に複雑で、ほかの地域で育った人たちがちょっと学んだだけで自在に使えるようにはならないのだ。
日本特殊論や日本偉大論を唱えたい人たちは、「日本語には、外国語にはない敬語があるから、世界一難しい言語である」などと言う。そもそも敬語は、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3つから成り立っている。ある程度の話者がいる言語なら、さまざまな姿の敬語があると考えた方がいい。だから、「敬語は日本語にしかない」というのは誤りだ。「外国語とは英語で、その英語の知識もわずか」という人たちが、「ニッポン万歳論」を展開するのである。もちろん、英語にも敬語はある。誰に対しても同じ表現を使うわけではない。
さて、インドネシアの共通語の話だ。この地域にすでに共通語として存在していたのは、マレー半島のマラッカやシンガポールなどで交易で使われていたマレー語で、昔はアラビア文字で表記していて、のちにラテン文字表記になった。それを手直しして「インドネシア語」としたのである。マレー語はこの地域の言語をもとに、さまざまな言語を飲み込んで出来上がった言語だ。マレー語の外来語は、ここが元英領植民地だったという歴史から英語からの流入が多いのだが、インドネシア語の場合はオランダ語起源のことばも少なくない。
乗り物のバスは、マレーシアではbas。英語のbusの発音をラテン文字で表記した例は、ほかにも多い。インドネシア語でバスは、かつてはオランダ語そのままにbis(ビス)としていたが、最近では英語の影響を受けてbusとするようになってきたが、発音は「バス」ではなく「ブス」。
マレーシアで飲み物を注文したとき、氷を”es”と言ってしまい、「それ、インドネシア語だね。マレー語だとais」と指摘されたことがある。そうだった。忘れていたのだ。インドネシア語の”es”は英語のiceが訛ったものかと思っていたのだが、どうも違うらしい。オランダ語の氷を意味するijs(エイス)を、その綴りをそのまま移すのではなく、発音しやすい綴りにしたのではないかというのが、私の想像だ。インドネシア語の氷は、esのほかにair batuアイル・バトゥ(直訳すれば、水・岩となる)ともいう。airは「エアー、空気」と間違いやすいが、戦前期のマレー語ではayerと綴った。水の意味だ。
ちなみに、路面凍結を日本ではアイスバーンという。これは英語ではなく、ドイツ語の“eisbahn”で、eisがアイス。
インドネシアでは小学校からインドネシア語で教育しているし、テレビなどマスコミもインドネシア語を使っているから国民のほとんどは理解できる。しかし、日常的に、常にインドネシア語を使って生活しているのは主に中国系の人たちやジャカルタなど大都市に移住してきた2世や3世たちだ。