1937話 ふたりの叔母 その3

 翌年も、元「横浜のおばさん」に連絡して、授業の前に表敬訪問をした。とくに聞きたい話があったわけではないが、私の知らない世界の話を聞くのは興味深かった。戦時中から戦後の混乱期の話などを小一時間ほどうかがった。

 その翌年も恒例の電話をすると、おじさんが出て「今、女房は入院していて・・・」という。病院を聞くと、大学のそばだから建物の姿は知っている。

 「じゃあ、お見舞いに行きますよ」というと、「今は、体中、何本もの管が繋がっていて、そんな姿を女房は見られたくないと思うんで・・・」と、見舞いをやんわりと断られた。

 それから間もなくして、「今朝、女房が・・・」と、おじさんから電話があった。訃報を母に伝えたが、無言だった。理解したのかどうかわからない。日常の会話はできたから、悲しみをを黙って受け入れたようにも見えた。

 通夜の会場は、やはり大学のそばだった。普通、できることなら葬式には出ないことにしているのだが、今回は母の代わりとして出席することにした。「どうぞ、お顔を見てあげてください」と誰かが言ったが、私は棺に近づかなかった。横浜のおばさんはかなりの美人で、その記憶のままにしておきたかった。死んだ人の顔を、最後の記憶にしたくなかった。

 通夜の会場には、名古屋のおばさん一家が来ていた。おばさんと会うのは、世田谷のおじさん(母の兄)の葬式のとき以来か。あの時は母はまだ長い時間電車に乗ることもできたので、その付き添いとして葬式に出た。もちろん、ふたりの叔母もいた。

 あれは1990年だったと思う。おじさんと横浜のおばさんがウチに遊びに来たことがあった。「パソコン、始めた?」と聞かれて、「いいえ」と答えると私との雑談は続かず、伯父と叔母のふたりは熱心に「ワード、エクセル」という不思議な語を使って、わけのわからない話をしていた。おじさんは理系の人で、その息子も理系の大学教授。おばさんは元教師で、そのころやっていた食事療法の講義資料作成のために、コンピューターの勉強を始めたようだ。私が「ワード」を使うようになるのは、それから10年以上あと、エクセルは今も使えない。

 伯父も叔母たちも、「親がひどいと、その子供は『ああはならないようにしようね』と、まじめに生きるようになるのよね」とよく言っていたように、きょうだいの子供はたちは、前川家を除いて、皆「立派な道」を歩んでいる。おばさんの葬儀会場で、そんなことを思い出していた。

 「横浜のおばさん」の葬式に埼玉まで来た名古屋のおばさん一家は、新座のホテルをとっているので、「勝手知ったる他人の町」ということで、世間話をしながらホテルまで同行した。

 元「横浜のおばさん」が亡くなった翌年、おじさんを励まそうと電話をしたが不在のようで、ホームの事務所に問い合わせると、「入院しています」という返事だった。病院は、やはり大学のすぐ隣なので、授業を終えてからお見舞いに行った。個人情報が尊重される時代だから、「お見舞いに来た」と言っておじさんの苗字を口にしても、病室の番号を教えてもらえなかった。「ご関係は」と聞かれたので、「親戚です」と答えたが、それだけでは信用されず、「患者様の姓名を」と言われたが、とっさのことで、もちろん姓はわかっているが名を思い出せなかった。おじさんを姓名を合わせて呼んだことなどなかったからだ。「えーと、えーと・・・」と、おじさんの名を思い出そうとしていたら、受付は「まあ、いいか」と思ったようで、病室の番号を教えてくれた。

 4人部屋で、おじさんはすぐに見つかった。いくつもの管につながれていて、目をつぶっていた。眠っているのか、意識がないのかわからないが、ちょっと声をかけ、握手をして病院を出た。

 それ以後のことは、知らない。怖くて、ホームに電話することができなかった。おじさんの家族からは何の連絡もない。