1935話 ふたりの叔母 その1(全5回)

 母の妹は、住んでいる場所にちなんで、それぞれ「横浜のおばさん」、「名古屋のおばさん」と呼んでいた。

 もう20年近く前になるのだが、その「横浜のおばさん」から転居通知のハガキが届いた。横浜の家を処分して、長男の家の近くにある老人ホームに住むことになりましたという通知だった。移転先の埼玉の住所はちょっと変わった地名だが、知らない場所ではない。新座市野火止(のびとめ)。その前年に、立教大学新座校舎で講師をすることになり、新座駅からの徒歩ルートを地図で調べていて、この変わった地名が印象に残っていた。

 元「横浜のおばさん」の移転先をパソコンに入れて調べると、大学のすぐ隣に赤いマークが灯った。これも何かの縁だから、授業前に表敬訪問をしておこうと思った。

 その10年くらい前から母の記憶がしだいに怪しくなり、ひとりで出かけるのが心配になり、きょうだいの会や母の兄の葬儀への付き添いなどをしたから、ふたりの叔母とは比較的よく顔を合わせていた。小学生時代からお世話になっている叔母への表敬訪問という目的のほか、母の少女時代の話も聞きたかった。

 母の一家は、母が生まれて間もなく上海へ移住し、祖父(母の父)は薬局を営んだ。ふたりの妹は上海で生まれた。母は、上海時代の楽しかった思い出や優しかった父(私の祖父)の話は時々したが、その父が急死して以後のことはほとんど話をしなかった。ある日、そのあたりのことを聞き出そうと話を向けると、しぶしぶ話しだしたものの、涙声になって何も話せなくなった。断片的な話をまとめると、祖父が急死したあと、祖母は上海在住の男に入れあげ、薬局は娘(母)にまかせて遊び歩いただけでなく、店の売上金も持ち出したらしい。祖父の実家も日本で薬局をやっていたので、「これを売って生活費に」と言って、大量の薬品を上海に送ったが、その売上金も祖母の遊興費に消えたらしい。母は薬局の店番をして、ふたりの妹の面倒をみて生活した。満足に女学校に通えなくなった時代のことを思い出すと、50年以上たっても、悔しくて、涙が止まらないようだった。

 祖父が、生まれたばかりの娘(母)を連れて上海に移住した理由を母から少し聞いたことがある。祖父は薬剤師で、学校時代の中国人留学生の親友の招きで上海に移住した。上海の店舗と住まいは、その親友の世話で整えた。母の話では、祖父はなかなかに興味深い人物で、上海の社会状況が「反日」になってきたので、「ブラジルに行こうかなあ」などと考えているうちに、急死した。「ちょっと疲れた」と店の奥で横になって、そのままだったという。使いの者が母が学ぶ女学校に来て、急いで帰宅した。それ以後、母の生活は変わった。祖父の話を書いてみたいと思ったことがあるのだが、問題が多すぎた。

 渡航先が上海だった理由は、そこに親友がいたからなのだが、なぜ日本を出たのかという話は母が少し話してくれたものの、とても書けない。祖父の問題ではなく、祖母の問題だ。祖母が死んでも、その関係者が生存しているから、「鬼の私小説家」になりきらない限り、我が家の「ファミリーヒストリー」は書けない。

そういえば、NHKの番組「ファミリーヒストリー」に登場した有名人のなかで、母方の人物を一切紹介しなかったことがあり、「表に出せないこと」があるのだろうなと思った。この番組に出演した伊東四朗は放送で、「とんでもない事をしでかした先祖がいるんじゃないかと心配で・・・」と語っていたが、本当に「とんでもない事」をした人がいたら、その事実は放送しないから心配はない。「とんでもない事をしてしまった先祖」を探して一族の歴史を調べたのが小沢昭一で、「表に出せない暗い歴史のある人物」は、芸能人としてふさわしいと考えていたのだが、「きれいさっぱり、なにもおもしろくないわが家の歴史だった」と書いている。