1936話 ふたりの叔母 その2

 

 母が話せないことと、もう記憶から消えた昔の話を、横浜のおばさんから聞きたいというのも、埼玉の新たな住まいを表敬訪問の主たる目的だった。そういえば、叔母たちは、生まれ故郷の上海時代のことをいろいろ調べていたようだが、その時は私は母の過去にまったく興味がなかった。昔の上海のことにも興味がなかった。1990年代だったと思うが、祖父がやっていた薬局の店員で、上海在住の中国人から母に手紙が来て、「あなたが住んでいた家が取り壊されることになりました。再訪するなら今ですよ」という内容だった。そこで、母と叔母は上海に向かったのだが、私は羽田に母を送ることはしたが、「昔の上海」を見ておこうとは思わなかった。私の歴史ではなく、母たちの歴史なんだから、興味がなかったのだが、今にして思えば、見ておくべきだったと思う。母や叔母たちの話をもっと聞いておくべきだったと思うが、若い時はそんなことは思わないものだ。

 のちにインターネットの時代に入り、上海市の歴史資料もネットで読めるようになり、戦前期の上海の薬局一覧といった資料に、祖父の薬局の名があった。

 さて、初夏の埼玉の話だ。

 電話で日程を調整し、初夏の明るい午後、授業の前にホームを訪ねた。

 「足を悪くして、つらくて・・・」とおばさんは言った。部屋の中は何とか歩いているが、外出は難しいらしい。横浜の家の近所は坂や階段が多く、住まいも老夫婦が住むには広すぎて、ホームへの移住を決めたという。横浜に広い家を持ち、生活ができる額の年金が支給されるという境遇にないと、有料老人ホームでの生活はできない。

 おばさんがいちばんつらいのは、買い物に行けない事だった。料理が大好きで、病人食などの講師もしていたおばさんは、「今日は何を作ろうか」などと考えながら、食品の品定めをしながら買い物をしているのが楽しみだった。

 元気なおじさんに食料品を買ってきてもらうのは無理だ。ホーム職員の補助で、車椅子でスーパーに連れて行ってもらうことはできたが、毎日のように補助をお願いするわけにはいかない。なんとかして買い物をしても、台所に何分も立っていられないから、大好きなように料理ができない。ひざの痛みが、おばさんの最大の楽しみである料理を奪ってしまった。「それがつらいのよ」と、細い声で言った。

 少女時代の母の謎は、左手のことだ。母の左手は、顔の近くまで持ち上げるのが限度で、頭を大きく曲げないと髪まで届かない。その原因を母に聞くのは残酷なような気がして、聞けなかった。母の妹であるおばさんなら、何か知っているかもしれないと思った。

 「お姉ちゃんが小さい時のことだから、私はまるで知らないときのことなんだけど、あとから聞いた話だと、よちよち歩きのとき階段から落ちて、肩を脱臼したんだけど、治療せずにそのまま放っておかれて、左手が使えなくなったらしんだけど・・・」。それ以上のことはわからないらしい。姉妹の間でも、その話は深く探ることは避けていたようだ。

 いままでおばさんとは世間話をしたことがあったが、おじさんと話をするのは初めてに近かった。聞きたがり屋の私は、サラリーマン生活と定年退職後の生活の話を聞いた。「長生きするのは、昔話をする仲間がだんだんいなくなるということで、『あん時は、笑ったよなあ』という話を何度もして笑っていた相手が、もういないということなんです」という小沢昭一の話を紹介すると、「そう、ホント、そう」とおばさんもおじさんもうなずいた。サラリーマン時代、麻雀や将棋をしたり、さんざん飲みに行った仲間は、ひとり減りふたり減り、まだ生きていても「健在」とは言い難く、「長生きは、さみしいことでもあるんですよ」と、おじさんがいい、「そうね」とおばさんが言った。

 横浜時代は元同僚が比較的近所に住んでいたので、ときどき会食をし、「健康に問題がある人はノンアルコールビールにしてさ」と懐かしそうにしゃべったが、「埼玉に移ると、もう,会えないだろうな」とさびしく言った。