1684話 日本語人 その3

 

 おばさんだけでなく、おじさんの日本語もいろいろな場所で聞いた。太魯閣(タロコ)は台湾有数の景勝地で、渓谷を徒歩で登った。早朝出発で、梨山に着いたときはもう夕方だった。広場の椅子で休憩していると、ワイシャツ姿の中年男性が近寄ってきて、「日本からいらっしゃったのですか?」と聞いた。「はい」と返事をすると、「ちょっとお話してもよろしいでしょうか」と実にていねいな口調の日本語だった。観光バスの運転手だといい、その前は台北日本航空本社で働いていたと自己紹介した。

 日本が中国と国交を結んだことで、中国は日本航空の台湾就航をやめるように要請し、1974年に日本航空は撤退し、その代わりに新設した日本アジア航空が就航することになった。私がこの人物と話をする数年前の出来事だ。「元は日本航空で・・」というひとことは、国際政治の荒波を表している。その当時の社会を多少知っていれば気がつくことだった。

 その人は、自己紹介をする前に「もう夕食はおすみでしょうか?」と聞いた。50前後のきちんとした身なりの人物の日本語は、長髪ヒゲよれよれTシャツ&サンダルの若造にはあまりにもていねいだったので、長く印象に残っていた。ずいぶん後になって、あのセリフは「你吃飯了嗎?」(もう食事はしましたか?)の翻訳だったのだと気がついた。中国人(じつはタイ人も)は、こういう意味の言葉を挨拶としてよく使う。タイ語では「キン・カオ・ルーヤン?」というのだが、食事を済ませたかどうか本当に聞いているわけではなく、ただの挨拶だ。

 いつもの余談だが、私が中国料理店でコックをやっていたとき、台湾人の料理長の陳さんは夕方店に来ると、「まえかわ、ご飯食べた?」とよく声をかけてきた。「まだです」というと、料理長は自分の夕食を多めに作り、私に分けてくれた。私以外の日本人コックは、「油が多い」とか「臭い」だのいろいろ文句を言って、料理長が作るまかない飯を嫌がっているなか、私ひとりが喜ぶから、おいしい飯を食べさせてくれたのだ。東京で食べているのに、台湾の味がした。店では使わない香辛料や調味料を使っているからだ。

 台湾の話に戻る。

 1970~80年代に台湾を旅行したのは幸せだった。ほとんど毎日、台湾の話を日本語で聞くことができた。そういえば、『台湾万葉集』は名作だが、今台湾に興味がある日本人は、こういう本は読まないだろうなあ。台南スイーツが・・・という本は読んでも。

 こうして日本語人のことを書いていると、1970年代の、旅先で出会った日本語を話す台湾人や韓国人のことをいろいろ思い出す。台湾や韓国の田舎で出会った人が、同じことをしゃべったのだ。

 「日本の方でしょうか?」と話かけられ、「はい」と返事をすると、おじさんは直立不動になり、「ぼくは、○○小学校を卒業しました。日本語を話すのは戦争が終わって初めてです。ぼくの日本語はわかりますか?」

 心配などまったく必要のない確かな日本語だった。子供の頃習った水泳や自転車は、大人になってからでも忘れないのと同じなのか、戦後30年以上たってもすぐに日本語が出てくる世代なのだ。

 韓国では、日本育ちという人に多く出会った。神戸の女学校を卒業したという人や、中学校まで日本ですごし、卒業後すぐ韓国に渡ったが、大人になってから仕事で日本を行き来することが多く、読み書き話すは日本語の方が楽だという人にも会った。釜山の食堂に入ったら、「大阪から来たばかりです」という夫婦が経営者だった。

 1970年代は、酒場や路上で、日本人が話をしていると、「ここは韓国だ、日本語なんかしゃべるな!」と怒鳴りながら、胸倉をつかまれたり殴られたといった事件があったらしい。その時代から韓国に通っている研究者は、「1990年代に入ると、日本語をしゃべっているというだけで、いきなり殴られなくなっただけでも、日韓関係の大きな変化ですよ」と語った。