航空券を買う
羽田・ニューデリー・バンコク・香港・羽田のアリタリア便で、10万8000円の航空券を買った。羽田・ニューデリーのノーマル運賃は、片道が約13万円の時代だから、これは破格に安かったとはいえ、やはりかなりの金額なのだ。この時代、若い勤め人の給料が5万円ならいい方だから、2か月分の給料に相当すると考えると、私が買った航空券代は、いまなら50万円くらいということか。あのころ、ウエイターなどの時給が150円くらいだと思う。だから、日給なら1000円は超えていて、ちょっときつい仕事だと日給2000円程度という時代だ。私より数年前に旅をしようと考えた団塊世代の人たちは、時給100円以下の仕事をして、1ドル360円のドルを買ったのだから、その世代からは「おまえら、楽になったよなあ」とうらやましがられる状況だったのだ。
しかし、旅の情報という点では、私の世代も前の世代と変わりはなかった。「地球の歩き方」はもちろん、ロンリープラネットもない。日本語でも外国語でも、ガイドブックはまだ出版されていない。ただし、タイプライターで打った原稿をコピーしたようなものはあったらしい。ヨーロッパのどこかの国で、”Overland to Asia”というような資料があるという噂は耳にしたが、実物を見たことはない。その昔、銀座にイエナという洋書店があって、外国旅行の資料を探していたのだが、ほとんど成果はなかった。”Student Guide to Asia”や、”On Your Own Guide to Asia”、”Asia on the Cheap”といった本を手にするのは、銀座でコックをやっていた1970年代後半のことだった。
コックをやっていたその時代、ガリ版刷りの旅行雑誌「オデッセイ」が創刊された。新宿紀伊国屋の雑誌売り場で見つけたおもしろい雑誌が、この「オデッセイ」と「「本の雑誌」の2冊だった。「オデッセイ」はインド特集号を出していたが、インドから帰った私にはもはや用はなかった。特集以外におもしろい記事はあり、編集部に感想などを書き送るようになり、「一度、編集部に遊びに来ませんか」という誘いの手紙をもらい、土曜日は長い昼休みがあったので、銀座から上野に出かけた。その後、製本作業などを手伝うようになり、コラムを書くようになる。そういうこともすべて1970年代後半のことで、70年代前半はやはり、旅行情報はほとんど手はいらなかった。1970年代前半は、「オデッセイ」も、「地球の歩き方」も、H.I.Sもまだない。
ロンリープラネットの最初の出版は、1973年の”Across Asia on the Cheap”だが、欧米の書店にロンリープラネット社のガイドが並ぶのは1970年代後半からだろう。1970年代前半は、欧米人にとっても、アフリカやアジアの情報は、口コミやミニコミで伝わるもので、70年代後半になって少しマスコミの世界に入っていったというわけだ。タイプで打ったもののコピーではなく、活字印刷の出版物になっていても、手に入れるのは簡単ではなかった。
こういう話を書くと、若者は「アマゾンなら簡単に世界の本が買えるのに、なぜ買わなかったのか」などといぶかしくおもうかもしれない。パソコン(パーソナル・コンピューター)という語が生まれたのがこの時代なのだが、「アマゾンで・・・」という時代ではないということがわからないかもしれない。このコラムでは、いずれ外貨両替について書くが、こんな体験もしている。
「日本での外貨入手が面倒で制限があるなら、日本円で持って行けばよかったじゃないですか。クレジットカードなら、もっと便利で安全ですよ」と若い編集者に言われたことがあって、唖然愕然、開いた口が塞がらないというのは、こういうことだ。昔から、日本円は世界のどこででも通用していたと思っているらしい。大学生はもちろん、勤め人でも、クレジットカードなどとても持てない時代があったこともわからないようだ。
あの頃の旅をもし再現するなら、渋谷で遊んでいる若者を拉致するようにインドの村に連れて行き、スマホを取り上げ、わずかなカネを渡して、「好きなように旅しろ」と言って去るようなもので、出川哲朗風に言えば、それが「ガチリアル!!」なのだ。バラエティー番組で、1970年代の旅を再現するなら、そうするしかない。インターネットなし、スマホなし、ガイドブックなし、カネなしの旅とは、そういうものだ。
だから、私はあえてこういう昔の旅話を書こうと思ったのだ。