1483話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第1回

 

 中国 その1

 

 予想外にインド食文化話が長引いて、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんの最新作『失われた旅を求めて』(旅行人)にまつわる話をするのが遅くなった。私好みのインド本である名作『つい昨日のインド 1968~1988』(渡辺建夫、木犀社、2004)のような本を蔵前さんにも書いてほしいと以前から思っている。インドと日本と、その間にいる自分の40年史なのだが、彼は書く気はなさそうだ。しかし、最新刊『失われた旅を求めて』(相変わらず、もじりのタイトルが好きらしい)では、変わるインドと変わらないインドの話を、ほんの少し書いている。その100倍ほどの文章を読みたいのだ。

 この本は、1980年代から90年代に蔵前さんの前に現れた世界を写し取った映像集だ。勝手に想像すると、80年代の旅は彼にとって「だいぶ前の旅」,90年代は「ちょっと前の旅」という感覚ではないか。もうひとつ、勝手に想像すると、かつて雑誌「旅行人」に出てきた彼の写真とは雰囲気が全く違い、画像がノスタルジーにあふれているのは、ポジフィルムをスキャンしたせいばかりではなく、ブックデザイナーでもある師のアートワークの効果ではないか。そのせいで、「昔の旅」感は深まる。

 まあ、確かに、昔の旅だ。彼が初めて中国に行った1983年に20歳の大学生だった若者は、現在57歳だ。結婚が早ければ孫がいる年齢なのだから、今の若者からすれば、この本で扱った蔵前さんの旅は、long long agoとか、once upon a timeと言いたくなる昔なのだろう。そういうことは算数の世界では理解できても、若くはない私には感覚的にはよくわからない。蔵前さんが海外旅行を始めてから40年を超え、私の場合は1973年からだから、そろそろ50年近くにもなる。しかし、ふたりとも、過去の思い出の旅の中だけで生きているわけではなく、今も継続している道楽だから、単なる昔語りではない。

 もう10年くらい前からだろうか、自分が旅した土地が、その後劇的に変化したしたのはどこだろうかと考えることが、時々ある。

 「変わったといえば、そりゃ、中国だろう」という意見が、多数の支持を受けるだろうが、私は中国に行ったことがない。「行ってみたい」と思ったことはないが、「行っておけばよかった」と思うことがある。長くなりそうだが、その話から始めようか。

 あれは、1970年代の後半だったと思う。羽田空港からどこかに行く時だった。機内で読んだ新聞に、母が学んだ上海の女学校の同窓会の記事が出ていた。母から同窓会の話を聞いたことがなかったので、連絡先などをメモして、旅先から手紙で知らせた。それがきっかけで、母は1930年代に別れ別れになった級友たちと、1970年代末に再会することができた。そして、同窓生の間から「あの上海に、また行ってみよう」という話が持ち上がった。当時はまだ中国観光旅行が自由にできない時代で、日中友好団体の旅という体裁で、級友にして旧友たちと懐かしの上海に行った。

 戦後最初の上海旅行は、制約の多い団体旅行だったが、その後比較的自由に旅行ができるようになって、2度目の旅は上海生まれの妹も誘い、昔住んでいた家を見に行った。家庭内でいろいろ問題があった祖父は、薬科学校時代の親友である元中国人留学生の招きで、生まれて間もない母を連れて上海に渡り、薬局を営んだ。母の妹ふたりは、その上海で生まれた。

 どうやって連絡を取ったのかわからないが、祖父が営む薬局で店員をしていた少年が今も旧居近くに住んでいることがわかり、再会した。しかし、1980年代前半は、まだ政治的に難しい時代だった。外国人と交流のある中国人は要注意人物とされ、物品の受領には報告の義務があったという。だから、手渡すお土産にも細心の注意が必要だったらしい。

 店員だったかつての少年は、日本語の会話はもちろん読み書きも自由にこなせたので、母や母の妹たちによく手紙をくれた。年金生活に入り、釣りを楽しみにしていると手紙にあり、釣り道具を送ってほしいという手紙が来ると、釣りのことなど何も知らない私は、その手紙を釣具店に持っていって、少し多めに買い、上海に送った。そのお礼ということで、月餅を送ってくれたのだが、あれほどうまい月餅を食べたことがない。横浜やバンコクの中華街で月餅を探しまくったが、レベルがまったく違った。高級月餅は上海でもかなり高価だったはずだ。

 あるときの上海からの手紙で、母の一家が暮らしていた家一帯が取り壊されることになったから、その前に見ておくなら今ですというものだった。時代はもう、中国人との交流が基本的には制限されることはなかったので、母のノスタルジーの旅は間に合った。その旅に姉は同行したのだが、私は「中国に行くカネがあれば、ほかの国に行ったほうがいい」と思っていたので、行く気はなかった。それが、今、悔やまれる。蔵前さんが行った時代よりもややあとだが、まだ路上に外国人がいると人が集まり、じろじろ見られ、その人々はまだ人民服(正確には中山服)を着ていたと、21世紀の上海をテレビで見ていた母と姉は、「上海は変わったねえ」とよく言っていた。

 祖父の薬局があったあたりは、内山書店があり、金子光晴たち文学者のたまり場があったそうで、テレビ番組でしばしば紹介されていた。インターネットの時代に入り、その薬局のことを調べてみると、上海市の歴史資料に、戦前期の日本人経営の薬局と昔の資料があった。元薬局があったあたりの風景を見たいと思ったが、中国政府はgoogleを排除しているので、ストリートマップは、ない。工夫をすれば見ることができる画像があるのかもしれないが、努力することはない。