1939話 ふたりの叔母 その5(最終回)

 

 思い返せば、「あのとき、母は危なかったな」と思うことが何度もあった。救急車で運ばれる母といっしょに病院に向かったことが4度はあるはずだ。

 多分、最初は真冬の夜だ。その頃はまだ、母は自分のことは何でもできたから、私の帰宅が遅くなっても、自分の食事の用意は自分でして、寝る時間になれば寝ていた。その夜は、たまたま私は早く帰っていて、私が夕食を作り、一緒に食べた。食後しばらくテレビを見て、「じゃあね」といって自分の部屋に引き上げたのだが、台所で妙な音がした。行ってみると、母は台所の床に倒れていた。意識はある。話ができる。倒れたのではなく、転んだらしい。あとから考えると、スリッパを履こうとして、足を滑らせたらしい。かなり痛がったが、打撲だと思い、シップしてベッドに運んだ。翌日も起き上がれないほどの痛みだというので、近所のクリニックに連れて言ったら、「大腿骨骨折ですね」と診断され、救急車で行きつけの病院に運んでもらった。

 あの夜、もしも私の帰宅が遅くなり、母が台所で倒れていたら、電話はかけられず、暖房のない真冬の台所で横になったままだったら、それで命が尽きたかもしれない。

 高齢者は「転んだら、おしまい」とよく言うが、母の場合もまさにそうで、大腿骨にボルトを入れて退院して、しばらくは近所の散歩くらいはできていたのだが、1年もたたずに、ひとりでトイレに行くのもつらくなった。デイサービスの日に大学の授業を組み、あとはできるだけ家にいるようにした。この時期、旅をやめることにした。

 何年かはいっしょに食事ができたのだが、椅子に座って食事をすることがつらくなり、寝室に食事を運んで、ベッドで食事をするようにした。病院の食事のようなものだ。「何を食べたい?」と聞くと、「何でもいいけど、柔らかい物」というのがいつもの注文だった。見た目も味も普通の料理なのだが、ペーストを固めたような料理が売り出されるのはもう少し後だ。

 秋のある日は、熱いスープを作った。いつもなら、テーブルに料理を置いて、寝室から出るのだが、熱いスープをこぼすと大ごとなので、母の食事を眺めながらとりとめのない話をした。食事を終えて、片付けようとしたとき、母は下を向き、苦しそうな表情をして、そのあと急激に震え始めた。痙攣という感じだった。映画の、「毒を盛られた」というシーンに似ていたが、悪いものを食べさせたとは思えない。私は、たまたま、そのときに、母の寝室にいただけなのだが、「もし母が、ひとりきりで苦しんでいたら」と想像すると、恐ろしい。その時私が家にいても、別室にいたら気がつかなかっただろう。

 すぐさま救急車を呼んだ。病院に着いたときは、いつもの平静を取り戻していたが、しばらくするとまた苦しみだし、ICUに入った。深夜になって、医師の説明があった。「敗血症によるショック状態です。最大の努力をして治療にあたっておりますが、かなり危ない状態です。年齢のこともあり、最悪の状態を覚悟してください」ということで、延命治療に関する書類などを読んで、サインした。

 夜明け前には「症状は、なんとか、好転しました」という報告を受けて、一度帰宅した。「母が、危ない状態になるかもしれない」と、名古屋のおばさんに電話をすると、症状などに関する専門的な質問が相次いだが、私にはなにも答えられなかった。その時まで、「ショック」という語の医学的意味などまったく知らなかったから、叔母さんの解説を受けることになった。

 ひと月ほどで退院して、またもとのような生活が始まったが、私は外出が怖くなり、スーパーの買い物も、できるだけ手早く済ませるようになった。初めは、外出できないことの不満が爆発しそうだったが、アマゾンで本とCDを買うようになり、自宅で遊ぶことも楽しくなってきた。ユーチューブで外国のテレビ番組を見て、往年の歌手の動く姿を見て楽しんだ。ゲームにはまることは今も昔もないが、疑問に思ったことは何でも教えてくれる道具として、パソコンと遊ぶようになり、外出しない生活に慣れてきた。

それからも何度か救急車で病院に行くことになり、そのたびに命拾いをして、母は兄はもちろん妹たちより長生きして、命を終えた。

 まだ居間で一緒にテレビを見ていたころ、旅番組を見て「ああ、ここに行った。ここにも行った。もう高原を歩くなんてできないけど、あのころ行っておいてよかった」と母はつぶやいた。「どこかに行きたかったけど、どこにも行けなかった」と不満を言われなくてよかった。母は、役立たずの子供をあてにせず、自分で旅を始めた。「私が稼いだお金は、全部旅行で使ってやるからね」といって、旅に夢中になり始めたのは50歳を超えてからで、70代まで続いた。

 母が死に、私は旅に戻った。チェコで、私とほぼ同年代のオーストラリア人人夫婦と一緒に食事をした。

 「私たち、めんどうを見ないといけない人はもういないの。そして、誰かにめんどうを見てもらう必要も、まだない。だから、こうやって、ささやかな旅を続けているの」

 この話はチェコ旅行記に書いたが、正確には、そのあとの会話はこうだった。

 「だけど、この幸せはいつまで続くかまったくわからない」と、私。

 「そう、そうね。明日、我々ふたりのどちらかが倒れるかもしれない。それで、旅も人生も終わるかもしれない。若いころ、旅はいつでも、いつまでも続けられると思っていたけどね・・・」。彼女はイギリスで育ち、20代の数年はアメリカで働き、オーストラリアに渡り、マレーシア出身のボクシングトレーナーと結婚した。

 「今後の旅なんて、まったくわからない。お互いに、そういう年齢なんですよね」と私。