1938話 ふたりの叔母 その4

 

 元「横浜」のおじさんを見舞った翌年、名古屋のおじさんから電話があった。「実は、昨日、妻が突然亡くなって・・・・」

 母には、もう知らせなかった。悲しみが深くなることがわかっているからだ。

 名古屋のおばさんにもお世話になった。奈良の山奥に住んでいた1950年代、父はいつものように地方の現場で仕事をしていて、3人の子供の世話をしている母がしばらく入院することになり、たぶんまだ独身かあるいは新婚間もないはずの名古屋のおばさんがはるばる奈良にやってきて、子供たちの食事や洗濯の世話をやいてくれた。山の村だから食材が思うように手に入らず、それでも塩イカを細かく切って溶いたタマゴに入れ、円盤状の小さなタマゴ焼きを作ってくれたことは今も覚えている。たぶん、都会の味を感じたのだろう。

 それ以後も、何かにつけて、ずっと気にかけてくれた。母の足が不自由になり、なかば寝たきりに近い状態になると、電話をかけてくれるようになった。「テレフォンカードがいっぱいあるから、このカードが切れるまでおしゃべりしましょ。お姉ちゃんは、どう?」という声を聞くと、受話器を母に渡した。母は「そうなの、うん、そう、そうね」とは言うが、まとまった話はしなくなっていたものの、電話の相手が誰かはわかっていた。

 名古屋のおじさんから電話があってしばらくして、「その日」のレポートが送られてきた。

 おばさんはちょっと前から入院していたのだが、だいぶ良くなったので、新しい老眼鏡を買うことと、手紙類の整理などを兼ねて、ひと晩の外泊願いを出し、許可された。おじさんが病院に迎えに行き、メガネ屋により、昼食を食べた。食事をしていると、「ちょっと気分が悪い」というので、すぐさま自宅に戻った。休めば良くなるだろうと思っていたが、症状は急変し、救急車を呼んで、元の病院に戻ったが、間もなく亡くなったという。

 おばさんは、看護師だった。母の病気の話をしたときも、詳しい数値を知りたがった。おじさんは現役の医者だ。大病院を定年で辞めたが、そのあとなかばボランティアで診療を続けている。夫婦そろって医学のプロなのだが、医者であるおじさんにとっても、何が起こったのかわからない急変だったという。おじさんのレポートには、専門的な話が出てくるが、もちろん私にはわからない。とにかく、専門家でもわからない状況で突然亡くなったということらしい。夫であり医者でもある自分がそばにいながら、何もできなかったという悔しさと悲しさが文面から読み取れた。

 それから間もなくして、母が眠るように死んだ。三姉妹のなかでは年長の母がいちばん長生きしたことになる。今年、名古屋のおじさんからハガキが来た。長年空きが出るのを待っていた有料老人ホームに、やっと引っ越せることになりましたという転居通知だった。

 横浜のおばさんにも名古屋のおばさんにも、我が家はお世話になったが、我が家がお世話したことはほとんどない。