2038話 続・経年変化 その4

音楽 4 なつかしい音楽 1

 一般的な話だが、生涯でもっともよく音楽を聞き、音楽に関心を持つのは中高校生時代だという説がある。人によっては10代だという説もあり、「中学入学から10年」という人もいる。英語のティーンエイジ(13歳から19歳まで)という説もあるが、だいたいその時代ということだ。家族構成によってそれぞれの音楽生活には違いがあり、兄姉がいるとやや早熟になって年上の人と音楽体験が重なることもある。親の影響もある。知人の場合だと、父親が大学時代バンドをやっていて、その影響で小学生時代から楽器をいじり、後にプロのミュージシャンになったというという例もある。

 少年少女時代に聞いた音楽が、生涯の愛唱歌になったり、その歌手やバンドとその後もファンを続けることになる。10代に出会った音楽と生涯つきあうことになる。中高年になると「懐かしの歌」になる場合もある。

 私と同世代の人たちの音楽生活はどのようなものだったか。幼児期から小学校低学年時代は、聞こえてくる音楽を聞いていたにすぎない。美空ひばり三波春夫などの歌が耳に入ってきた。テレビやラジオから「懐かしの歌謡曲」番組では、戦前・戦中期や終戦直後のヒット曲も流れていた。私が生まれる前の次のような歌も、戦後生まれの私でも知っている。

 酒は涙か溜息か(藤山一郎

 赤城の子守唄(東海林太郎

 丘を越えて藤山一郎

 二人は若い(ディック・ミネ

 誰か故郷を想わざる(霧島昇

 支那の夜(渡辺はま子

 こうして、書き出せばきりがない。1952年生まれの私の歴史は1950年代後半から記憶が始まるのだが、その当時の大人は戦前戦中期から記憶が繋がっている。そういう時代だから、戦後生まれの少年でも、戦前期の歌を耳にし、記憶に残っていたのだ。

 1950年代後半から60年代にかけての音楽事情は、戦前からの歌謡曲とともに、外国の音楽も入っていた。戦前から1950年代あたりまで使われた「ジャズ」は、本来のジャズに加えて、アメリカのポピュラー音楽も「ジャズ」と呼んでいた。ジャズを歌う歌手で、当時、ジャズに興味のない人でも顔と名前を知られていたのは、江利チエミペギー葉山、そして旗照夫くらいだろうか。

 カントリーは大学生の間でちょっと流行っただけだろう。テレビで見る機会があったのは、ジミー時田、寺本圭一、小坂一也くらいだろうか。クレージーキャッツはジャズバンド、ドリフターズはカントリーバンドだった。

 ハワイアンは日本人移民との関係があるので、バッキー白片など戦前から日本で活躍し、戦後も大橋節夫とハニー・アイランダース、エセル中田、などの名に記憶があり、日野てる子は「夏の日の思い出」(1964)のヒット曲を覚えているし、ちょっと好きだった。

 1950年代から60年代、大学にジャズやハワイバンドがあり、コンサートが開かれていた。ラジオでは、「大学対抗バンド合戦」を放送していた。早稲田のジャズコンサートで司会をしていた早稲田の学生が大橋巨泉であり、早稲田大学のジャズバンドの司会をしていたのが、タモリだ。ハワイアンバンドはビアホールで大いに稼いだという時代だ。