2036話 続・経年変化 その2

音楽 2 歌謡曲

 歌謡曲は好きだが、演歌はあまり好きになれないというのが、私の趣味の範囲だ。

だから、島倉千代子や西田佐知子やちあきなおみザ・ピーナッツなどは好きだが、演歌は、どうも・・・。だから、「なつかしの歌謡曲大全集」で、戦前から1960年代あたりまでの歌なら、ヒット曲限定だがたいてい知ってる。歌謡曲を積極的に聞くようになったのは、タイの歌謡曲(ルーク・トゥン)に、日本の歌謡曲がだいぶ影響を与えているようだという予感から、それまでちゃんと聞いていなかった歌謡曲をまとめて聞いてみようと思ったからだ。それで、1940年から60年代までの歌謡曲を積極的に聞いて、いい曲も多いと再発見した。外国で日本を再確認したという例だ。

 1950年代から60年代に日本で生活していた者にとって、歌謡曲は一般教養だった。1950年代は映画の全盛期だったが、近くに映画館がない土地に住んでいる人にとっては映画との縁はほとんどないが、歌謡曲ならラジオでいくらでも流れて来た。好き嫌いにかかわらず、歌謡曲の光を全身に浴びていた。家庭でも街でも職場でも、商店でも工事現場からでも、どこからでも歌があふれ出ていた。あのころは歌の寿命が長いから、発売後5年たっても10年たっても「今のヒット曲」だった。「ヒット曲がひとつあれば一生食える」と言われた時代だ。小学生になった頃、こんな歌を耳にしていたという記憶がはっきりある。

 「お富さん」(春日八郎)1954年

 「僕は泣いちっち」(守屋浩)1959年

 「月の法善寺横町」(藤島桓夫)1960年

 「達者でナ」(三橋美智也)1960年

 こうして書き出せば、数十曲はすぐにあげられる。

 歌謡曲をひとりで何十曲も歌い続けるテレビ番組(「ひとり紅白歌合戦」)に出演した桑田佳祐(1956年生まれ)は、こんなことをしゃべっていた。記憶で書くから、しゃべったそのままではない。

 「むかし、バンドを始めた頃ってさあ、『歌謡曲が好きだ』なんて、みっともなくて言えなかった。『ロックをやっている若者が、歌謡曲だ?』と言われそうで・・・。でも、今は平気で言える。『歌謡曲、いいねえ』」

 桑田佳祐は、コブシを効かせて演歌のまね事くらいはできるが、彼より若い世代のロックバンドだと、まね事でも歌えないような気がする。1950年代生まれは、好き嫌いは別にして、都はるみ藤圭子が体に染みついている世代なのだ。

 大瀧詠一は、昔から歌謡曲愛を口にしていた。細野晴臣も同様。

 美空ひばりは、私が生まれた1952年当時、すでに大歌手だから、生まれる前からのヒット曲をたえず耳にしていた。例えば「悲しき口笛」(1949)、「東京キッド」(1950)、「リンゴ追分」(1952)などいくらでもあげられるが、同時代のヒット曲といえば、「港町十三番地」(1957)などがあることは知っていたが、ほとんど興味がなく、「柔」((1964)と「真赤な太陽」(1967)を聞いて、ますます魅力を失った。のちにまとめて聞いてみると、飛びぬけた才能の歌手だということはよくわかるが、「好きか?」と聞かれたら、「うまいとは思うが、『好き』という感じじゃないな」と答えるだろう。「あたし、うまいでしょ」とばかりに堂々と歌っていた。そのとおり、日本一の歌手なのだが、その堂々ぶりに好感を持てなかった。

 10歳にもならないケンイチ少年の心に響いたのは、島倉千代子の「この世の花」(1955)、「東京だヨおっ母さん(1957)、そして「からたち日記」(1958年)だった。6歳か7歳のガキでも、「儚い」(はかない)という感情はわかってきた。大人から見ればガキはガキでしかないが、大人の感情もすでに持っていることがわかる。「儚さ」や「悲しさ」が込められた歌が好きだというのは、のちのちファドやサンバを耳にして、すぐさま気に入った感覚に通じる。ガキはバカにできないのだ。

 もしかすると、私が多少変わった子供だったとすれば、アニメなど子供向け番組や青春学園物といったドラマには一向に興味を示さなかったことだ。海岸を走りながら、「バカヤロー!」と叫ぶシーンなんて、恥ずかしくて見ていられないという少年だった。