2049話 続・経年変化 その15

音楽 15 ブラジル音楽

 ブラジル音楽を初めて聞いたのは小学生から中学生になるころだった。今と違って、あのころはラジオしか聞いていない小学生が、英米以外の音楽を耳にすることは、実は幸せにも当時は特別なことではなかった。1960~70年代には、イタリアのポップス「カンツォーネ」が何曲もラジオから流れていたし、フランスのポップ「フレンチポップ」も同じようにヒットチャートに上っていた。ラジオで、イタリア語やフランス語の歌を耳にするのは、あのころの少年にとって、ごくありふれたことだった。1970年代前半なら、アフロ・ロックのオシビサや、カメルーン出身のマヌ・ディバンゴや南アフリカ出身のヒュー・マサケラなどもラジオで聞いている。ただし、アジアの音楽はほとんど放送されなかった。欧陽菲菲テレサ・テンも、日本の歌を歌っていた。

 初めて聞いたブラジル音楽は、ポルトガル語ではなかった。ボサノバをアメリカで売り出そうとブラジルの歌手ジョアン・ジルベルトとジャズプレーヤーのスタン・ゲッツが作ったアルバム「ゲッツ・ジルベルト」(1964)のなかに入っていた「イパネマの娘」が初めて耳にしたブラジル音楽だったかもしれない。LPではジョアンと妻のアストラッドが歌っていたそうだが、シングル盤ではアストラッドの歌だけ使われたらしい。その頃、日本のラジオで流れていたのはブラジル人が歌う英語の歌だった。これがボサノバをアメリカで売り出す戦略だった。プロデューサーがクリード・テイラーだと知ったのはずっと後になってからだ。クリード・テイラーの手によるCTIレーベルは、「いかにも売れるレコード」作りの達人だ。

 1950年代に、のちにボサノバの定番となる「想いあふれて」や「デサフィナード」などがヒットしているが、私の記憶にはない。映画「黒いオルフェ」は1959年制作で、日本公開は60年だ。映画で使われて名曲となった「カーニバルの朝」も、同時代に聞いたかどうかの記憶にないが、60年代には確実に聞いていて、深く心に残った。1960年代後半、渡辺貞夫がボサノバをジャズで演奏するようになり、日本でボサノバが広く聞かれるようになった。そのころから、「ああ、ブラジルに行きたいなあ」と憧れているが、いまだに実現していない。

 1970年代は、ブラジル音楽を聞いた記憶はない。ラジオからブラジルの音楽が流れていたはずで、ボサノバを聞いていたはずだが、特に印象はない。

 1980年代初めに、ClaraNunesを聞いた。カタカナ表記がクララ・ヌネスが多いが、ブラジルでの発音は「ヌネス」と「ニノス」の両方があるようで、ここではクララ・ヌネスとしておく。おそらく、82年の来日コンサートに際してのタイアップだったと思うが、ラジオで彼女の歌を聞いた。83年にアフリカから帰国すると、クララが急逝したと知った。40歳。病院の医療ミスだった。そのころ、ちょうどブラジル留学から帰国した人がいて、ブラジルから持ち帰ったクララのレコードを借りて、初めて彼女の歌をちゃんと聞いた。それがどのアルバムだったのか記憶にないが、そのなかの「ポルテーラ」が大いに気に入った。ポルテーラはエスコーラ・サンバ(サンバグループ)のテーマ曲だ。もう、これは、買い集めるしかない。新宿のディスク・ユニオンに通って彼女のCDを買い集めた。もう新作が出ないクララに代って、ほかに魅力的な歌手はいるだろうかと店員にアドバイスしてもらいながら探したが、クララ以上の歌手は見つからなかった。

 あれは横浜だったか、ブラジル人向けの食料品店に行ったら、ブラジルのCDが数十枚置いてあった。全部をチェックしたが、どれもまったく知らなかった。私が大好きなブラジル音楽は、すでに時代遅れになっているのだ。だから、アマゾンで昔のブラジル音楽を探して買っているのだが、歌謡曲であるショーロのCDは、アマゾンでもあまり出てこない。やはり、ディスク・ユニオンに行くか。

 クララのコンサートを見ることはできなかったが、のちにYouTubeができて、検索するとブラジルのテレビショーに出演している姿と歌声を聞くことができた。彼女の歌はいくらでも聞くことができるから、ここでも紹介しておこう。

 今、ラジオから流れる中島みゆきを聞いて、思い出した。友人のトルコ土産としてもらったSezen Akusの“88”のカセットテープだ。大いに気に入りCD版で買いなおし、しばらくトルコ音楽のCDも買い続けた。Sezen Akusの歌の感じは、曲によっては中島みゆきです。このCDをアマゾンで調べると、1万円以上している。気になる方は、このYoutubeで。より深い興味があれば、このLive映像を。民族楽器が入った歌謡曲です。そこにも注目を。