1449話 その辺に積んである本を手に取って その6

 ブラジル音楽

 

 ひと月くらい前から、何度目かのブラジル音楽ブームが来ている。1960年代のボサノバブームから、ラジオでボサノバは聞いていたが、どうもしっくりこなかった。金持ちの家のお坊ちゃんとお嬢ちゃんが作り出したとわかる音楽で、その「いかにも、おしゃれ」な音楽があまり好きにはなれなかった。私にとっての最初の衝撃的なブラジル音楽は映画「黒いオルフェ」(1959)だったが、レコードを買って聞くということまではしなかった。

 1980年代に入って、私にとって初めてのブラジル音楽の本格的な波が来た。1981年ころだったと思うが、「世界のどこかに住んでみる」という旅の企画を考えたことがある。移動する旅をちょっと中断して、1か所にしばらく腰を落ち着けてみようと思ったのである。その時の候補地のひとつが、ブラジルのサルバドールだった。ブラジルの中でもっともアフリカ文化の濃い土地だ。バイーアの州都サルバドールで音楽を聞きながら過ごせたら楽しいだろうなあと思ったのだが、ブラジルで1年暮らすカネが貯まらず、定住企画は最終的にナイロビに決まり、日本を出た。

 1982年のラジオから、ハスキーで悲しげなサンバが聞こえてきた。クララ・ヌネスという名に心当たりはなかった。日本で公演をやったというが、そのころ私はアフリカにいたので、来日前の宣伝活動を知らない。知っていれば、コンサートに行ったのにと思った。幸運なことに、そのころブラジル留学から帰国した人から、クララのレコードを借りて、たっぷり聞いた。ブラジルのカーニバルは外国人観光客と貧乏人の祭りで、金持ちはカーニバルの期間中国外脱出するのだという話を聞いた。大衆音楽のサンバと都市の小金持ちの若者が好きなボサノバ、あるいはMPB(Música Popular Brasileira。ブラジル・ポップス)の違いだ。

 83年4月に、FMラジオはクララの大特集をやった。医療ミスで急死したクララの追悼特集だった。それからしばらくは、エアチェックしたその番組をよく聞いていた。

 1990年代に入り、ディスク・ユニオン新宿店でアフリカなどワールドミュージックのCDを買うなかで、クララのCDを買い集めた。これが、久しぶりのブラジル音楽の波だ。その後、何年かに1度、たまらなくブラジル音楽を聞きたくなる時があり、CDを買ったり、ユーチューブでサンバを聞くことがある。深く聞いていけば、クララ・ヌネス並みかそれ以上のサンバ歌手に出会えるのではないかという期待があり、4枚組とか5枚組のコンピレーション(寄せ集め)CDを買い、未知の歌手のなかから心に突き刺さる歌声を探した。が、ダメだった。クララのような憂いのある歌声は見つからなかった。ここひと月ほども、何度目かのブラジル音楽の波が来て、1日中ブラジル音楽を聞いていた。そんな日に、ふと部屋にいくつもある本の山を見たら、ブラジル音楽の本が見えた。『ブラジリアン・ミュージック』(中原仁編、音楽之友社、1995)は、もう10年以上前に買ったのだが、音楽情報よりも音楽を聞いているほうが楽しいので、読まずに積んだまま時間が過ぎていたのだが、ちょっと気になる歌手の歌声が聞こえてくると、今頃になってこの本でチェックするようになった。

 ちなみに、ブラジル音楽の本の下にあったのが、「KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集大瀧詠一」(2005)で、この本を読む前に、大瀧本人が亡くなってしまった。そんなこともあって、その2冊が乗っている本の山には、それ以上本を乗せていなかった。「すぐに読むぞ」という気持ちがいつもあったからだ。私は大瀧詠一をDJや音楽解説者として、大好きだった。NHKラジオでときどき放送していた番組が大好きだった。

 ユーチューブのありがたいことは、今はもう見ることができないクララのステージを見ることができることだ。ブラジルのテレビ出演のシーンやプロモーションビデオの映像を見ることができる。そこでもっとも気になったのは、Clara Nunesという彼女の名前を、テレビのアナウンサーは「クララ・ノニス」と発音していることだ。ポルトガル語の発音はほんの少しは勉強したことがあり、その法則にてらせば「クララ・ヌネス」でいいはずで、だから『ブラジリアン・ミュージック』でも、ブラジル音楽の専門家が「クララ・ヌネス」と表記しているのだ。

 東京外国語大学のブラジル・ポルトガル語講座がインターネットにあって、発音も詳しく解説してくれているのだが、それを読んでも「ノニス」の謎はわからん。東京外大のサイトには、「ポルトガル語はカタカナで書ける」と書いてあるが、それはウソだ。イタリア語やスペイン語インドネシア語は、発音の基礎をちょっと頭に入れれば、綴りを見ればカタカナ表記がかなりできるし、単語を耳にすればある程度は綴りが頭に浮かび、LとRの違いに戸惑いながらも、なんとか辞書を引ける。ところが、ポルトガル語はだめだ。ブラジル・ポルトガル語は余計にダメだ。口の中でごにょごにょしゃべっているようで聞き取れない。綴りと実際の音の差が大きいのだ。

 クララの歌とともに、ブラジルのポルトガル語を、ちょっと、どうぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=ixNKuF0AYxQ