2040話 続・経年変化 その6

音楽 6 フレンチポップ

 私の世代では、小学校6年生から中学生で、ベンチャーズビートルズに出会い、高校時代はロックやフォークを聞き、ギターを買う。その時代に始まった深夜放送をよく聞いていた少年少女たちの過半数はフォークを聞き、英米のロック&ポップ音楽を熱心に聞いていたのはそれよりも少ないだろうと思う。それでも、今の高校生よりもはるかに多くの外国音楽を聞いていた。なにしろ、60年代だ。と言って、わかる人にはわかる表現だが、60年代後半はビートルズローリング・ストーンズジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスサイモン&ガーファンクルなどの時代だ。

 そして、20代になる70年代になると、以前ほどには音楽を聞かなくなるというのが大筋の流れではないか。レコードを買わない。コンサートに行かない。ラジオをあまり聞かなくなる。音楽と疎遠になっていく。まだ、カラオケはない。

 音楽とは密につきあいながら、この流れの中にいなかったのは、「幼少時代からピアノを始めて芸大受験を目指す」というような少年少女たちで、もう少し時代が後になると、そういうピアノ少女はバンドに誘われてキーボード担当になる。あるいは、ソウルからディスコへの道やラテン音楽、そしてジャズに目覚めた少年少女たちは、ロックやフォークに深入りしなかったのではないか。現実として、大学生が好む音楽と、中卒・高卒者(あるいは中退)が好む音楽は、明らかに違っていたという気がする。フォークやプログレッシブロックやクラシックは、おりこうさんが聞く音楽という印象がある。

 ケンイチ少年は、小学校高学年からラジオを友としていて、音楽ばかり聴いていたが、小遣いは本に消え、高校を卒業してからは稼いだカネは旅行資金に貯めるから、レコードを買うことはなかった。音楽を聞いている時間は長かったが、特定のジャンルや歌手・バンドのファンにはならなかった。音楽に淫するほどのめり込むことはなかった。

 中学生になったころ、どうしても買いたいレコードがあった。シルビー・バルタンの「アイドルを探せ」(1964)だった。それが、私が生まれて初めて買ったレコードだ。前回紹介したシャンソンのファンは60年代後半には中年になり、フランスでは若者の心をつかむ新しい音楽が登場した。日本でフレンチポップと呼ばれる音楽の時代だ。ロックンロールの影響を受けたイェイェYÉYÉと呼ばれる音楽が流行った。イギリスのロックバンドの歌のなかにある”Oh Yeah”という掛け声がフランス人には「ロックだなあ」と感じたようで、フランスのロック歌謡をYÉYÉと呼んだらしい。私流に解釈すれば、程度の差はあるが、リズムを強調したシャンソンだ。日本でも「イエイエ」として、多少は知られている。レナウンのコマーシャルソング「わんさか娘」はシルビー・バルタンも歌ったが、ひどい歌なので、これは黒歴史だ。弘田三枝子との歌唱力の差が目立ちすぎるヘタな歌だ。ちなみに、この「わんさか娘」は作詞作曲が小林亜星で、出世作だ。

 シルビー・バルタンの魅力はここにある。彼女のほかに、あの時代、次のような歌手がいて、日本のラジオからフランス語の歌が流れていた。こういう歌手の歌だ。

 アダモ

 ミシェル・ポルナレフ

 ジェーン・パーキン

 フランスワーズ・アルディー

 クレモンティーヌ

 ダニエル・リカーリなど耳なじみの名がどんどん出てくる。名前だけでなく、その歌も知っている。

 フランス・ギャルやダニエル・ビダルといったアイドル歌手も登場した。

 数年前のことだ。ラジオの電源を入れたら、フレンチポップが流れていた。NHKFMが特集番組を放送していたのを途中から聞くことになったらしいとわかった。番組にはアナウンサーのほか、やたらにフレンチポップに詳しいおばちゃんが出演していた。関西弁ではないが、しゃべり方とその量とスピードは、「大阪のおばちゃん」だった。外国人のアクセントはあるが、達者すぎる日本語だった。フレンチポップにやたらに詳しいおばちゃんって、誰だ? そんな人は知らないぞと思いつつ番組を聞いていたらそのおばちゃんの正体がわかった。なんと、元美少女のダニエル・ビダル。腰を抜かしそうなほど驚いた。1980年に日本人と結婚(のち、離婚)して、日本で生活していたそうだが、私はまったく知らなかった。彼女がモロッコ出身だということも知らなかった。