856話 昭和の実感 その5

 謡曲に包まれた幸せ 前編

 歌謡曲のことを書きたいのだが、その前に書いておかないといけない長い話がある。
 私は少年時代から歌謡曲を熱心に聞いていたわけではない。現在に至るまで、熱心な歌謡曲ファンではない。少年時代は、むしろ嫌いだった。幼稚園や小学生時代に私の心をとらえたのは、ザ・ピーナッツなどの日本語による輸入ポップスや、オリジナルのままの外国のポップミュージックだった。ただ、あのころは、街に歌があふれていた時代なので、商店街でも住宅地でも、あるいは自動車からでも、歌が流れ続けていたから、好き嫌いは別にしても、実に多くの歌を聞いた。歌だけでなく、演奏も耳にした。あの時代、1960〜70年代の老若男女の多くは、紅白歌合戦に出場した歌手のほとんどを知っていた。いくつもの歌を、多くの人が共有していた時代だった。「外国のポップミュージック」は、現在ではアメリカのポップスとほぼ同義語だが、昔はアメリカやイギリスだけではなく、イタリアやフランスやラテンアメリカ諸国の音楽も日本のラジオから流れていた。
 中学生になると、ベンチャーズビートルズの時代に入り、ラジオから前にも増してイギリスやアメリカの音楽が流れ出し、高校時代も同じだった。高校を卒業したのが1971年3月だから、私の1960年代はほぼ小・中・高時代と重なる。60年代後半の、中高生時代に心を奪われたのはアメリカ音楽ではあるが、今風にいえばブラックミュージック、R&Bやブルースやジャズで、70年代に入ると、やはり今の言葉で言えばワールドミュージックの方に関心が移って行った。熱心にラジオは聞くが、レコードは買わなかった。レコードに使うカネがあれば、旅費にするか本を書いたかったからだ。
 それから長い月日が流れて、私は初めて日本の音楽を熱心に聞くようになった。1990年代に入ってからだ。そのころ、タイ人と音楽の関係を本にしようと考え始めていたが、タイ音楽の知識はまったくなかった。日本語資料は当然ない。英語の資料もない。タイ人の音楽ライターの話では、1冊でタイの音楽事情がすべてわかるようなタイ語の本もないということだった。そして、タイ音楽の全貌を外国人に簡単に講義してくれるタイ人は見つからなかった。いや、見つかったとしても、こちらが無知では質問もできない。だから、まず、徹底的にタイの音楽を聞いてみようと思った。いままでタイ人たちが耳にしてきたありとあらゆる音楽を聞いて、音楽とタイ人とタイという国のことを考えてみようと思ったのである。
 そのころは、毎年タイで半年ほど暮らすという生活をしていたから、散歩の途中にわけもわからず「ジャケット買い」でテープを買い、とにかく聞いた。結果的には1500本ほどのテープを買って聞いた。
 日本では、タイ音楽の勉強はまったくできないので、なにか参考になることがあるかもしれないと思い、藁をもつかむ気持ちで日本大衆音楽史の勉強をした。レコードの歴史や作曲と日本語の問題や、異国情緒や、故郷を歌う歌といったようなテーマを頭に入れ、NHKのラジオ深夜便などで、古い歌謡曲を聞いた。すると、まったくわかっていなかったはずのタイの音楽事情がわかってきたのだ。音の調子で意味が変わる声調言語であるタイ語を、西洋音楽のメロディーに乗せると、声調がめちゃくちゃになり、聞いていて意味がわからなくなるという。だから、西洋音楽と出会う前のタイの歌は語りや声調に合わせた詠唱のようになる。山田耕筰の「赤とんぼ」問題を知っていたから、この話はすぐに理解できた。これは日本音楽史上の有名はエピソードだから紹介しておく。歌詞が「夕焼け小焼けの赤トンボ」とアカが高くなるように作曲している。平板に「アカトンボ」というメロディーにすると「垢トンボ」になってしまうから、「赤」の音に合わせた作曲をしなければいけないと山田は考えたのだ。日本語の歌は、日本語のアクセントどおりにメロディーをつけなければいけない。この考えは、いまでも演歌の世界ではある程度は意識されているが、シンガーソングライターは無視するものが現れ、そして歌詞が聞き取れるかどうかは重要ではないという考えが主流になっていった。これもタイと同じだ。
 もとからあった音楽に、西洋音楽がぶつかると、どういう変化をするのかというテーマを考えれば、建築だって食文化だって、同じことなのだ、西洋文化に出会ったアジア人の反応と考えれば、音楽だけが特別ではない。タイだけが特別ではない。日本の近代を学べば、タイもわかってくる。タイ音楽のことを考えていると、アジアの近代のこともだんだんわかってきた。