2046話 続・経年変化 その12

音楽 12 ワールド・ミュージック 1

 タイ人と音楽について書いた『まとわりつくタイの音楽』を出版したのが1994年。そのあと、三輪車の取材に入り、『東南アジアの三輪車』を1999年に出版する。意図したことではないが、20世紀の終わりとともに、私の興味範囲がアジアからほかの地域に広がっていった。1970年代以降、おもにアジアに関わる事柄に興味を持ち、旅し、本を読んでいたが、20世紀が終わるころから、アジア以外の地域のことも知りたくなったということだ。

 アフリカへの関心は、1982年から83年におもに東アフリカを旅したことがきっかけで、実は80年代から90年代は、アジアとアフリカが私の中で共存していた。1984年、ナイジェリアの歌手、キング・サニー・アデのコンサートを聞きに、代々木第一体育館に行った。東南アジア音楽のコンサートにも行った。『カセット・ショップへ行けば、アジアが見えてくる』(1988)を出したばかりの篠崎弘(当時朝日新聞記者)さんとタイ音楽のコンサート会場で出会い、ちょうどそのコンサートに来ていた音楽評論家の松村洋さんを紹介してもらった。そのすぐあとに、松村さんの紹介で、やはり音楽評論家の北中正和さんを紹介してもらった。タイ音楽の本を書こうとしていたから、そのころ音楽業界の周辺を歩いていると、小倉エージさん、青木誠さん、そして、アフリカの映画や音楽を紹介していた白石顕二さんとも知り合い、いろいろ教えていただいた。音楽とは無縁に過ごしてきたライターが、当時最高クラスの音楽ライター達と出会った。幸運なことである。

 中村とうようさんとは、レコードコンサートなどで話を聞く機会は何度かあったが、直接話をしたことはない。直接本人に確かめたわけではないが、インドネシア音楽は気に入ったようだが、タイ音楽のぬめぬめした感じ(それは、こういう感じだろうか)が肌に合わなかったようだ。とうようさんの事ではないが、大学で音楽をまじめすぎるくらいに学んだ人は、ピアノの音階以外の音は「ずれている、調律がくるっている」というふうに感じるらしい。東京芸術大学民族音楽を学んだ人の話では、大学の他学科の学生たちは、西洋の音階以外の音楽を聞くと、苦しくなるのだという。これは映画の画像がずれたまま上映されているようなものらしい。「正しい音楽」を大学で学ぶと、そういう弊害が出てくる。

 音楽史に詳しい人なら、1980年代から90年代が「ワールドミュージック」の時代だったのだとわかるだろう。それまで「民族音楽」ととらえられていた音楽が、ポップになりダンス音楽へと変身したり、曲を短くして聞きやすいアレンジにした音楽の誕生だ。

 ワールドミュージック誕生のいきさつを、北中正和さんの話をもとに想像すると、こうなる。1970年代以降、外国を旅してきたイギリスの若者は、旅先で耳にした音楽に興味を持つ。もちろん、ビートルズやレゲエの影響もある。イギリス以外の音楽に接した若者のなかには、帰国してマスコミで仕事をしたり、レコード輸入業を始めたり、レコード店の店員になる者もいた。アフリカなどで聞いた音楽をレコード店でどの棚に入れるか、雑誌で紹介するとなると、どのジャンルに入れるのかという問題がおこった。「民族音楽」「ジャズ」「クラシック」などいろいろに分類されていた音楽をひとまとめにして「ワールドミュージック」と呼ぶことにした。もちろん、英米音楽はこのジャンルには入らない。

 日本のラジオでは、キング・サニー・アデのほか、モリ・カンテオフラ・ハザヌスラト・ファテー・アリ・ハーンフェラ・クティなどの音楽が流れていた。欧米の音楽に行き詰まりを感じていた人たちが、「何か新しいモノ、奇異でおもしろいモノ」を探して、音楽の新しい体験を探していたのだろう。パリのファッションにしても、東ヨーロッパの服装を探し(フォークロア)、日本に手を伸ばし(ジャパネスク)、アジア&アフリカのファッションに出会うとともに、その地の音楽にも出会う新鮮な体験をした。「エスニック」が、服装やデザインや食べ物のキーワードになっていくという時代だ。

 その時代、私はおもにラジオでワールドミュージックを聞いていただけで、CDを買い集めることはしなかった。私の興味は、深入りして浸りたいというところまではまだ進んでいなかった。日本でゆっくり音楽を聞いているよりも、旅のことを考えていたかったからだろう。カネも時間も、旅に使いたい。そう思っていた。