2091話 続・経年変化 その55

植物 7

 母が自分の楽しみを求める生き方を積極的に選んだのは、50歳を超えたころだったと思う。何があったのかは皆目わからないのだが、趣味に生きるようになった。中国語教室に通い、短歌教室に通い、野草の会に通い、新聞の旅行広告を仔細に点検し、バス旅行に申し込んでいた。少しでもヒマがあれば、何か楽しい事を見つけるの忙しかった。その当時、母は仕事をしていて、楽しみの資金は子供たちに頼ることなく、自分で稼いだカネを資金にしていた。

 いろいろ手を広げたなかで、もっとも時間と資金をそそいだのは山野草観察だった。地元の会に入るだけでは満足せず、国立科学博物館の友の会のようなサークルにも入り、講座にも出席していた。毎月出かけていたのは、国立科学博物館付属自然教育園(港区)、小石川植物園(文京区)、神代植物園(調布市)などはよく覚えている。そのほか関東や東北の植物園に日帰り旅行に出かけたのは知っているが、それがどこなのかは知らない。

 植物園から帰ると、そこで見た草花の話をするのだが、食べられる植物にしか興味のない息子は、適当に相づちを打っていただけだ。食べられるということで、記憶に残っているのは「ツタンカーメンのエンドウ豆」だ。豆をもらったので、数粒庭にまいて、芽をだしたような記憶がある。ハンカチの木は苗木をもらってきたのではような記憶がある。「ハンカチ」という名と姿がおもしろいと喜んでいたのを覚えているが、母は育てるということにはあまり熱心ではなかった。

 母が大好きなのは山野草で、自然のままにある草花をその場で眺めるのが好きだったから、山野草を盗む行為には当然批判的で、「どうせ盗んできても、自宅じゃ栽培できないのに、なんで盗むのかしらね」と言っていたのを覚えている。

 母の山野草ハイクは、体力的な問題もあり、70代末ごろには終わり、自宅で過ごすことが多くなった。ちょうどその頃だと思うが、テレビでは旅番組で温泉と取り上げることが多くなり、同時に高原散歩番組も増えた。テレビの番組欄で山野草の番組を見つけたら録画するようにした。「ここも行ったよ、もうあんな道登れないわね。行っといて、よかった」とテレビに写る高原風景を見ながら何度も言っていた。そういう人生を予感して、50を過ぎたころから、悔いのない生き方を探してきて、今テレビの前で楽しかった昔の日々を思い出しているのだ。

 きちんと仕事をする人が番組を作っていると、画面に登場する植物の名前を表示していたが、字幕が出る前に母は植物名を口にし、いつしか私もいくつか花の名を覚えた。食えない植物にも興味が出てきたのだ。山野草だから、「美しい」というより、「可愛い」とか「可憐」という感じのものが多く、偶然だが、私と母の好みが一致した。カタクリの花がいい。もうひとつはコマクサ。「花が、ウマの長い顔に似ているでしょ。だからコマクサ」という解説で、花の名と姿をすぐに覚えた。「エーデルワイスはつまらない」ということも意見が一致した。

 今、テレビを見ていて、気にかかる植物を見かけると「ねえ、これ何て花?」と聞きたくなるが、ウチの植物の先生はもういない。

 母が山野草巡りをしていたころ、高原でなくても東京の植物園でいいから、1度くらいは母と一緒に行けばよかったとは思うが、そのころの私は食べられない植物には全く興味がなかった。それなのに、今はホームセンターに行って花の苗木を買ってくるようになった、切り花には今も興味はないが、鉢植えの花を買う。リンドウとフクシア(Fuchsia)が好きなのだが、すぐに枯らしてしまう。なにも気を使わなくても勝手に育つパンジーペチュニアニチニチソウは当たり前でおもしろくないが、気を使わなくても長く楽しめるというだけで、その種の花を買ってしまう。どうもキクの仲間の花は、母と同じで買う気になれない。

 食べられる植物は今でも好きだから、春になると、買ってきたジャガイモを野菜庫に放置して芽が出るのを待ち、3月末に植えるのが年中行事だ。それが今年も、もうすぐは収穫できる。大きな芋はできないが、サラダや肉じゃがには何回かはできるくらいの収穫はある。シソとトウガラシとシシトウは、鉢で育っている。ミョウガは放置していても、毎年芽を出す。

 自分の生命が頼りないものだと思えて来たら、動植物や子供に未来を見たいと思うのだろうか。