1175話 大学講師物語  その4

 博士論文


 あれは、講師になった年だったかもしれない。講師と教授の懇親会の場で、稲垣勉・白坂蕃両教授に声をかけられた。そこで、私を立教に招いたもうひとつの理由がわかった。『東南アジアの三輪車』(旅行人、1999)は内容的には学位論文のレベルに達しているが、一般書の形式だから、これを論文の形式に書き直さないかという申し出だった。『東南アジアの三輪車』は一般書だから、参考文献は巻末にまとめて書き出したのだが、論文ではそれぞれの記述の根拠となる出典を逐次示さないといけない。論文執筆には両教授が論文の書き方などの指導もしてくれるという。この両人が論文を審査する中心人物だから、合格できるように指導するというのだ。「どうですか、書きませんか」。そういう申し出だった。観光学のすそ野を広げ、より広範囲の関心を集めるために、三輪車研究の博士論文を立教で作り上げたかったらしい。
 「博士号なんて、別に欲しくないしなあ。博士が書いたエッセイだからといって、原稿料が高くなるわけでもなし・・・」
 「ええ、そうでしょう。前川さんにとって利益というものは何もないかもしれません。でも、論文を書いてみる気はないですか? 1から書くのではなく、すでに書いた文章に出典を明記したり、きちんと註をつけて書き直す作業ですから」
私は「考えてみます」というようなあいまいな表情をしたと思うが、考えることは何もなかった。
 一度書いた本のリフォームはおもしろそうではない。新たな体験はなさそうだ。「あっ、そうだったのか、なーるほどね。これはおもしろい」といった、知る喜びもない。あるいは、別の想像もした。あの本の弱点は、私が一番知っている。「もっと詳しく」とか「より正確に」などと思いながら、諸事情により「まあ、いいか」と手を打った個所がいくらでもある。だから、もう一度手をつけてしまうと、またあの苦渋の日々が始まるのかと思うと、「もういいや」という気になってしまったのだ。まったく新しいテーマに手をつけるなら、それは楽しい時間の始まりなのだが、三輪車の研究は1970年代からこつこつやって来たテーマなので、新鮮味がなかった。すでにやったテーマでは、この先5年か10年、また資料を集めて読み、取材に行くという気力が湧いてこなかった。気が重いのだ。満足できない内容で論文に仕上げる気もしない。だから、手をつける気がしないのだ。
 その後、大学で稲垣さんに会うと、「論文の件、考えていただけました?」とか、「あの話、いかがですか?」などと声をかけていただいたが、「ええ、まあ」と笑ってごまかした。論文を書いて、前川博士になっておけば良かったとはまったく思わない。もし私が20代の駆け出しのライターなら、名刺に「博士」の肩書をつけて原稿を売り込む武器にしようと考えたかもしれないが、今は要らない。博士論文の話は別にして、稲垣・白坂両教授に私の本を高く評価していただき、論文化への声をかけていただいたことには大変感謝している。稲垣さんも白坂さんも、ともにすでに定年退職しているが、ただのライターが書いた本に、専門の研究者が注目していただいたことは、とてもありがたいと思っている。
 ついでに言うと、私が書いた何冊かの本は、研究者がよく読んでくれて評価してくれることも多い。論文の参考文献に入っていることもある。だから、ちっとも売れないのだ。私は研究者に向けて書いているわけではないし、学術書を書いているわけでもない。私の好奇心のままに好き放題に書いて、編集者(出版社)が認めてくれて本になった。私が「おもしろい」と思うことを調べて書いただけで、学問的であるかどうかなどまったく気にしていない。そのせいだろうが、私が感じる「おもしろさ」を共有してくれる読者は少ない。私の好奇心をおもしろがってくれるのは、研究者が多いということになってしまう。だから、私はいつまでたっても、売れないライターのままである。

1174話 大学講師物語  その3

 トラベルジャーナリズム論


 そもそもシラバスというものを知らないのだから、その書き方もわからない。アンケート調査のように記入すべき項目が並んでいるので、「授業目標」や「授業内容」、「テキスト」「参考文献」、「成績評価方法・基準」などを書くことはわかった。難しいことはないのだが、授業計画が困った。毎回きっちりと計画を立てて、その計画通りに授業をやっていくのはプロの教師の仕事で、ちゃらんぽらんな私には難しいし、つまらない。ライブ感がないのだ。1年目の授業で、学生からは質問も意見も出ないことはわかったが、それでも授業を進めているうちに、関連する話をしたくなるということはある。そうなれば、授業計画通りには進まず、予定通りにはならない。きっちりとした計画を立ててしまうと、その計画に縛られて苦しむことになる。だから、きっちり決まった授業計画は立てなかった。
 講師を始めたころは、シラバスは手書きで、郵送だった。だから「授業計画」の欄も、授業の内容をいくつか箇条書きにしておけばよかった。
 しばらくして、シラバスがデジタル入力になったものの、書き方は手書き時代と同じでよかった。ところがすぐに厳しくなった。「1回目は・・・」、「2回目は・・・」と、全14回分の授業内容をきちんと記入していかないと、「記入が不備です。もう一度きちんと書いてください」という文句がでてきて送信できない。しかたなく、一応形式としてはそれらしく書いたが、その年の授業の最初に、「シラバスに書いたようには授業をやらないよ」と宣言した。
 友人の教授によれば、シラバスというのは教師と学生の契約書のようなもので、教師が提示したシラバスを読んで、そういう授業なら受けようと履修登録する。「商品購入と同じことだから、アメリカならシラバスと違うことをやれば訴えられるよ」という。
 「トラベルジャーナリズム論」とはなにか、グーグルに聞いてもわからない。この科目名の授業をやって13年目の現在でも、この語で検索すると立教の、私がやった授業しか出てこない。「トラベル」と「ジャーナリズム論」だから、旅行関係の出版物や放送番組などをあれこれ論じるのだろうか、具体的にはガイドブックや旅行記などに関して論ずればいいのかなどといろいろ考えた。考えたがよくわからないので、「異文化を考える」といったことをテーマにした。ごく簡単に言えば、「世界にはさまざまな文化がある」ということだ。小学生でもその基本はわかるだろうが、言語や音楽や食文化などの具体的な例をいくつか挙げろと言われたら、たいていの学生は口ごもる。台湾やベルギーの言語事情、世界のコメの話、日本の音楽教育の歴史など、どういう話をしても、「世界にはさまざまな文化がある」というテーマに当てはまる。
 私が授業でやろうとしたことは、学生に雑多な情報を振りかけることだった。彼らの頭の中に数多くの索引、あるいは情報の引き出しを数多く作ることだった。だから意識的に雑談をした。雑談の中の情報を、自分の勉強に生かしてほしいと思った。勉強というものは、教師がしゃべったことを暗記することではなく、自分で調べて考えることだから、そのヒントをばらまこうと思ったのだ。そうすれば、アフリカを考えるときに、ヘミングウェイアイザック・ディネーセン(あるいは本名のカレン・ブリクセン)といった西洋人の助けを求めずに、アフリカ人の思考を考えるようになればいいなと思ったのだ。
 授業を始めて数年後、稲垣さんに会ったので、その年の授業内容を説明し、「こういう授業をやっていますが、よろしいんですか?」と聞くと(何を今さらと言われそうだが・・・)、にっこり笑って、「どうぞ、ご自由に」と言ってくださった。これで、好き放題やろうときっぱりと決めた。
 定年が決まった今年の、最後の授業を終えた直後、偶然に裏事情を知った。「トラベルジャーナリズム論」は、前川健一が自由に授業できるように、どういう授業内容でもそれらしくなるようにした科目名なのだと知った。学者ではない私が授業をやるのだから、従来の学問領域で規定できる範囲を超えることは明らかで、大学側はそれを期待してライターに授業を依頼したのだ。だから、狭い範囲に限定する科目名はふさわしくない。そう考えたのだ。

1173話 大学講師物語  その2

 大学の教員


 大学の教員のことは、大卒者でもあまり知らないかもしれない。
 大学の教員は、教授、准教授(以前は助教授といった)、講師のほかいろいろあるが、説明が面倒なのでここでは助教や助手などについては触れない。
 まずは講師から説明すると、講師は大学によって名称が違うが、常勤と非常勤、あるいは専任と兼任に分かれる。常勤や専任というのは、会社でいえば正社員である。いくつもの授業を担当し、学内の雑事もこなし、研究会などの雑用もこなす。「正社員」だから、一応、生活できるだけの給料が支払われる。一方、兼任や非常勤というのは、パート勤務である。大学によって違うが、1科目だけ担当する教員で、私の場合1年契約の「パート勤務」というのが正しい肩書である。そう、私はパートのおっちゃんである。
 教授や准教授には、はっきりと決まった職制があり、教授なら教授会出席の権利がある。わかりにくいのは特任教授、特命教授、客員教授、特別招聘教授などである。教授や准教授は専任講師同様、会社でいえば正社員で、教授はいわば取締役なのだが、特任教授など「教授」の前に何か説明の語がついている教師は、身分的には非常勤講師と同じである。外務官僚を招いて「日米関係」の授業をしてもらったり、銀行の頭取を招いて「国際金融論」の授業をしてもらったり、あるいは有名芸能人に授業を依頼するといった場合、「非常勤講師」という肩書では大物に対して失礼だろうという配慮で作った「なんちゃって教授」が、特任教授ほかの名称である。とにかく「教授」という名称がついていれば、薄給でもやる人は少なくない。
 これらなんちゃって教授は、大学の広告塔の意味もあるから、待遇は大学によって、その人物の知名度などによって大きく違うらしい。個室を用意し、世話役のアシスタントを置き、専用駐車場を用意するとか、さまざまなオプションがあるらしい。有名芸能人だと、夏休みなどにちょっと講演会程度の話をする「授業」でも、「教授」として破格の謝礼が支払われているのかもしれないが、私にはまったく縁がないので、詳しい事情はまったく知らない。
 2004年秋、私を立教に招くことを決めた稲垣教授と池袋校舎で会い、簡単な打ち合わせをし、書類に必要事項を記入した。夏は航空運賃が高くなるから、その時期には旅行しないことにする。授業は4〜9月の春学期にすることに決めた。
稲垣さんと公開講座の時に会うまで、立教大学とも稲垣さんともまったく縁がなかった。ちなみに、私は池袋生まれだが、東京で魅力のない代表的な街が池袋だから、遊びに行くこともなかった。池袋のジュンク堂に行くようになったのは、講師になってからだ。
 不思議と言えば不思議なのだが、どういう科目を担当するのかまったく気にしていなかった。稲垣さんはすでに私の本を何冊か読んでいるようで、私に「ホテル経営」とか「観光学概論」といった授業を依頼するわけはない。私の守備範囲内の授業なのだろうと想像していた。詳しい授業の話はまったくしなかったことに気がついたのは、打ち合わせを終えて帰宅してからだ。何の授業をやるのか知らずに、確認もせず、「授業をやります」と承諾してしまったのだ。ちゃらんぽらんの私も、さすがにちょっと心配になった。
 間もなく、大学から書類が届いた。シラバス(Syllabus)に記入せよということなのだが、シラバスなどという語をそもそも知らない。授業の目的や具体的な授業計画を書いて学生に示して、それによって学生は履修登録をするのである。教師1年生は覚えなくてはいけないことが多い。私が担当する科目は「トラベルジャーナリズム論」と書いてある。何のことがわからないまま、「まあ、適当でいいや」と記入し、2005年の4月から授業が始まった。

1172話 大学講師物語 その1


 ヒマなライター


 サラリーマンの経験がないから、サラリーマン用語にもなじみがない。「御社・貴社」という語を使ったことがない。「NTTさん」のように社名に「さん」をつける用法になじみがない。有給休暇とか休日出勤も、転勤や人事異動も、もちろんその意味は知っているが、フリーライターの身には縁がない。そんな私が、サラリーマン用語に出会うことになった。定年退職である。
 立教大学の教員の定年は、講師も教授も65歳である。1年契約の講師には定年などないと思っていたのだが、あったのだ。講師の私も65歳で定年を迎えたが、「代わりがいない」という理由で1年延長されたが、「定年をしっかり守れ」という文科省の指導もあって、今年で定年退職することになった。任期は来年の3月末日までだが、私の授業は4月から7月までの春学期だから、成績評価の仕事がわずかに残っているものの、今年の講師の仕事はすでにほとんど終えている。
 あれは2004年の秋だったと思う。天下のクラマエ師こと、旅行人の蔵前仁一さんと電話で世間話をしていた。どちらから電話をしたのかとか、どんな用件だったのかなどなにも覚えていない。蔵前さんはうんざりしているかもしれないが、私は彼と雑談をしている時間がたまらなく楽しいのだ。「そろそろ電話を切らないと迷惑だろうな」とは思うのだが、ついつい話を続けてしまう。そのときの雑談の中で、彼はこんなことを言った。
 「あっそうだ、さっき、『立教で授業をやらないか』って電話があったんだけど・・・」
 「やればいいじゃない。適任だと思うよ」
 蔵前さんは、難しいことを易しく説明する高い技術と知識を持っている。
 「冗談じゃない。めんどくさいよ。だから、すぐに断ったよ」
 その数日後、私のもとに「立教で、授業をやる気はありますか?」という電話があった。それで、輪郭線が見えた。こういういきさつだと想像した。
 2004年10月に、3回にわたって立教大学公開講座が開かれた。テーマは「旅を書く」。講師は講演順に、下川裕治、前川健一、蔵前仁一だった。確認をとっていないものの、この講演は、講師を決める模擬授業だったのかもしれないと思う。つまり、試験だ。これも確認を取っていないのだが、大学は下川氏に講師を依頼して断られ、次に蔵前氏に依頼し(これはわかっている)断られ、前川に話が来たようだ。そして、前川が引き受けた。
 私は大学の授業の経験などまったくない。大学だけでなく、どういう学校での授業体験もない。それなのに講師を引き受けたのは、自信があったからではもちろんない。ヒマだったからだ。1年は春学期と秋学期の2期に分かれていて、そのいずれかの学期に十数回の授業をやる。成績評価の仕事も含めて半年間は拘束される。毎週の授業だから、半年は最大6日までの旅しかできない。そういう詳しい事情は後になってわかることだが、ある程度時間の拘束があることは想像できた。それでもいいと思った。ヒマだから、旅行時期を移動すればいい。
 私は、何か新しいことがしたかったのだ。いままでやったことがない体験をしてみたかった。講師の仕事を引き受けたのは、「なんだか、おもしろそうなことが始まるかもしれない」という期待感だった。それが2004年秋のことで、2005年4月から立教大学観光学部兼任講師となった。

1171話 桜3月大阪散歩2018 第25回(最終回)


 大阪スケッチ その2


 大阪スケッチの2回目は、おもに建築物をめぐる話を紹介してみよう。


 このブログですでに何度か言及したが、このような木造3階建て、1階駐車場という住宅は全国にあるが、大阪に特に多いような気がする。想像するに、写真の土地はもとは長屋で、そこにこういう建て売りを建てたのではないだろうか。狭小3階建ては、車庫部分の強度に難点がある。


 このビルはマンションとして設計したのだが、建設途中でホテルに変更したのではないかと想像している。ホテルなのにベランダがあるのは、ハワイなどのリゾート地のもので、街なかのホテルらしくない。想像をさらに膨らますと、外国人観光客が急増する昨今の事情を眺めて、「ホテルのほうが儲かる」という経営判断があったのかもしれない。ちなみに、タイ最初の超高層ビル「バイヨークタワー」は、賃貸マンションとして誕生したが、ホテル不足の観光事情を利用して急遽ホテルに改装した。タイでは、入居者を追い出すのはじつに簡単だ。


 難波八阪神社。大阪人は「阪神」の文字が気になるかもしれないが、「なんばやさかじんじゃ」と読む。境内にある獅子舞台は、目が照明、鼻がスピーカーになっている。夜の獅子舞台を見たいと思って夜に行ったら、門が閉まっていた。通常は昼間だけ解放されているのだろうか。大阪の名物建築のひとつだ。


 松屋町筋は「まつやまちすじ」が正式名なのだが、話し言葉では「まっちゃまちすじ」という。その通りにある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は、通称「いくたまさん」という。前回の大阪滞在でのことだ。夕刻にここを歩いていて、神社らしからぬ建造物が背後に見えて、難波八阪神社の例もあるので、境内に新奇な施設を作ったのかと思った。数日後、この神社の背後を歩いたら、この建造物はラブホテルだとわかった。大阪の性と俗、いや聖と俗か、まあ同じようなものだが、こういう世界を見たのだが写真に撮らなかった。というわけで、1年後に撮影した。

 大阪市西成区(左側)と阿倍野区(右側)の国境である。右の阿倍野区には高層マンション街があり、大阪市立大学医学部と附属病院があり、超高層ビルあべのハルカスに至る。左側の西成区に見えている木造家屋は、飛田新地、まだ現役の遊郭である。これほど興味深い国境は、大阪といえども他にないかもしれない。

 180度回って撮影。右側が飛田新地。こういう光景を見ることができるから、散歩がおもしろいのだ。

 季節が廻り、春から盛夏になった。桜咲く大阪の散歩話は今回で終える。この春、「街を歩こう」と思って、世界の街を思い浮かべたら、大阪がその候補地第一位になって、今年も出かけた。大阪は、散歩地としては特級におもしろい。数日遊ぶなら、候補になる街はいくらでも思い浮かぶが、ひと月いても毎日がおもしろいという街は、ニューヨークなどを除けばそう多くない。大阪という異文化に出会えたことは幸せだった。今は別の街のことを考えているが、いずれまた大阪に行く。まだ大阪市だって全区をめぐっていないのだから、大阪府全域に足を踏み入れるにはまだまだ時間がかかる。

1170話 桜3月大阪散歩2018 第24回

大阪スケッチ その1


桜満開のころの旅物語は、盛夏になって終わりを迎えた。最後は大阪スケッチ、あるいは写真の落穂ひろいをお届けする。昨今のテレビドラマのまねをする気はないのだが、最終回が1回では終わらないので、「最終章 その1」という構成で、2回にわたって書くころにする。1回目は、以前に書いたネタなのだが、また書いておきたい食べ物の話。


大阪に来るたびに、うどんを食べてみる。「食べる」ではなく「食べてみる」というのは、大阪のうどんの正体を知りたいからだ。うどんが柔らかいのは昔から知っているが、いままでの経験で「汁がひどく塩辛い」と感じている。今回は、大阪でこのうどん屋を知らない人は少ないと思われる有名店「千とせ」の肉うどんを食べてみた。私には、やはり汁の塩分が強すぎる。東京のうどんをうまいとは思わないが、同時に関西のうどんもなあ・・と思うので、「うどんは讃岐」が私の好みである。


 「大阪はうどん。だからそば屋はほとんどない」という固定観念がある東京人が少なくないような気がするが(和田アキ子もそんなことを言っていたが)、じつはそば屋も結構ある。だから「名物」の看板を掲げるのだろうが、「深川」は東京にルーツを持つと言いたい屋号か?


 うちの近所のスーパーマーケットでは見ない野菜が多くあり・・・

 ああ、今年も若ごぼうの季節に大阪に来たなあという感慨。しかし、まだ若ごぼうを食べたことがない。たぶん、そんなにうまくはないだろうが・・・。


 鶴橋の南、御幸通商店街の食材屋。これだけ多種多彩のキムチは、東京の新大久保でも売っていないと思う。大阪に住んでいたら、毎月何回かは通うだろうなあと思った。

 大阪と言えば、クジラである。「さらし」とは尾の部分の薄切りをゆでたもの。「ころ」は皮を揚げて乾燥させたもの。

 鶴橋の韓国料理店に入りチゲを食べる。店主と従業員と客の会話が弾んである。家族連れのような客が入ってくると、会話は日本語と韓国語のチャンポンになった。在日1世や2世や3世と、韓国人客(親族か知り合いの観光客か、最近やって来たいわゆるニューカマーか)が混在しているのだろうと想像しながら昼飯を食べた。

1169話 桜3月大阪散歩2018 第23回


 大阪の発言


 ただ大阪を散歩しているだけなのだが、ところどころで大阪人の大阪人に対する発言を目にする。おそらく、気がつかなかったものは数多く、気がついたが写真を撮るのを忘れたのもある。ここでは、散歩の片手間の採集品を紹介する。集中して採取すれば、『大阪はりがみ考現学』とか、『大阪VOW』ができるだろう。


 阪急千里線車内で発見。大阪ではこういう注意書きが必要だということか。阪急だから、神戸も同様か?



 大阪弁のこういう表記は、好きではない。大阪の「笑い」はこの程度か。


out of orderは「故障」の意味で、「品切れ」の意味はない。勘違いか、電子辞書の誤用か。それはともかく、弁当屋が英語で表示しようとしているあたりが、今の大阪だとも思う。


 天保山の食堂にて。この英文は日本語がわからないと解読できないし、英語がわからないと日本語のおかしさがわからない。英語教育には日本語の基礎学力が必要という実例。


 くらしの今昔館のトイレ。便器に乗る人がいるのだ。


 今宮駅を過ぎた住宅地で、ハングルの看板を発見。韓国人の長期滞在者がいるということか。


 定食屋のカウンターにこの表示。寝に来る客がいるようだ。

 公園を宴会場と宿にしてはいけませんという注意。


 難波でも、この注意書き。


 西成の商店の前。自動販売機の脇に書いてある。夜間、店の前を宿や便所にするなと店主が怒っている。西成はどこでも寝床だ。そういう場所に、星野リゾートが進出する。