1201話 プラハ 風がハープを奏でるように 第10回

 

此頃都ニハヤル物 その2

 

 両替の問題点を書き出してみる。

 プラハで悪評高きものといえば、悪質タクシーと両替屋だ。両替屋の悪事はいくつかある。スペインやイタリアでは、クレジットカードを使ってATMでキャッシングという旅行者が多かったように思うが、プラハではユーロや米ドル札を持って両替しようと人が多いように見えた。その事情は想像するしかないが、ドミトリーのところで話したウクライナから来た男は、手元のクレジットカードでは一度ユーロに両替してから、それをコロナに再両替しないといけないとこぼしていた。おそらく、中欧や東欧などから来た旅行者などは、クレジットカードよりも現金を使いたいのだろう。そこで、ATMではなく両替屋を利用すると、こういう悪事に巻き込まれることがあるという話を書き出す。旅行者にとっては「悪事」だが、たぶん違法ではないのだろう。

 

 a、ひどく交換レートの悪い店。低い交換レートを提示しているだけでは、決して違法ではない。両替に慣れていない外国人が騙される。あるいは、両替のレートなど、どこだって大して変わらないと思っている旅行者、あるいはそもそも交換レートに関する知識がないという旅行者がひっかかる。

 b、手数料で稼ぐ店。レートは相場並みの数字を提示しているが、両替手数料を高く取る店がある。両替したあとで、手元のカネが少ないと文句を言っても、もう遅い。こういう店はそう多くはないようだ。

 c、手数料に注意の店。店頭に”NO  COMMISSION”(手数料なし)という看板を掲げているが、要注意の店。交換レートがひどく悪い場合があり、実質的に高い手数料を取られているようなものだ。あるいは、こういう悪事もある。

 交換レートも相場並みで、「手数料はゼロ」と表示してある。これなら安心と両替すると、手元のカネがやけに少ない。計算が違うと文句を言うと、レート表の下に、誰も読めないような小さな字で、「3000ユーロ以上あるいは3000米ドル以上両替した場合」などと書いてあり、それ以下の額の両替だとひどく悪いレートが適用される。こういうインチキはバルセロナにもあった。

 上の文章を書いていて思い出したのは、アマゾンのマーケットプレイスだ。かなり安い値段で出品している業者がいて、「おお、これはいい」と思って注文しようとすると、送料がとんでもなく高いと気がつくことがある。通販に慣れていないと、こういう「ワザ」にひっかかるが、これも違法ではないはずだ。

 プラハでは、両替屋の店頭にもATM機が設置していることも多いが、店によってレートが変わるのかどうか不明だが、ATM機を使うのが無難かもしれない。

 チェコでの両替がしばしばトラブルになるという日本語の記事はネット上にいくらでもあるが、以下のような動画の方がわかりやすいだろう。

 最初の動画は、日本語字幕が付いたもの。これを見れば。悪質な両替屋がいかに多いかよくわかるはずだ。プラハはいまや大観光地だから、カモネギ旅行者を待ち構えている輩も多いということだ。プラハは、女性向け雑誌などで紹介する「夢の国の、おとぎの街」では、決してない。

https://www.youtube.com/watch?v=eyK8dQH-Vh0

 こちらは日本語の字幕はついてないが、内容はよくわかるだろう。同じ人物による動画で、時間の経過がわかる。私は路上の両替業者は見ていないが、「問題だ」という過去の記事は読んだことがある。

https://www.youtube.com/watch?v=gd77Fs7UEic

https://www.youtube.com/watch?v=2zQ5j3T0v0I

https://www.youtube.com/watch?v=7kjRatOoseA

 

 

1200話 プラハ 風がハープを奏でるように 第9回

 此頃都ニハヤル物 その1

 

 プラハを散歩していて耳障りな事、聴覚に与える不快な事は、まずサイレンだ。救急車とパトカーの両方があるようだが、まるで犯罪多発都市のように昼夜サイレンが鳴り響いている。特に、深夜早朝は安眠を妨げる。プラハ在住者のブログに同様の記述がある。プラハは、実は本当はうるさい街なのだ。サイレンがうるさい理由をご存知の方は、ご教授ください。

 チェコ、あるいはプラハは安全な場所というイメージがあるが、プラハ日本大使館の犯罪報告書があるので、ここでちょっと紹介する。人口1万人あたりの犯罪発生件数は、チェコは日本の2.5倍。殺人や強盗など凶悪犯罪発生状況は、殺人事件は日本の2倍、路上強盗は日本の8倍。フランスやアメリカよりは安全というだけで、チョコのガイド本が見せるような夢の国ではない。トラベルライターは、観光関連団体が喜ぶようなコマーシャルを書くコピーライターだから、その国の提灯記事しか書かない。

https://www.cz.emb-japan.go.jp/documents/2015chekohanzaijousei.pdf

 サイレン以外のうるさい話は、あとでまとめて書く。

 目に映る「はやり物」に関して、私よりも前に書いている人がいる。1970年代からプラハを見続けている写真家、田中長徳の『屋根裏プラハ』(新潮社、2012)にこうある。

 「プラハの街並みで、この二十年間最大の変化は、バロックの見事な目抜き通りに並んだ携帯屋であろう。ビロード革命(1989年に、当時の共産党政権を倒した民主化革命のこと。前川注)の後、最初は両替屋が増えた。それから数年後に『西側世界の安ぴかアクセサリーや化粧品』を売る小店になった。さらに数年が経過して携帯ショップになった」

 2018年の私の印象で、プラハで目につくものを以下にいくつか書き出してみよう。

1、両替屋

 どこを見回しても、”EXCHANGE”の文字が見える。両替屋だ。店によっては、店頭にATM機を設置しているところもあり、これなら夜間や休日でも両替できる。

 チェコEU加盟国だが、通貨はユーロではなく、コルナである。チェコ語ではkorunaと書くが、英語ではcrownだから、英語の会話では通常複数形のcrownsとなる。ちなみに、英語crown、ラテン語coronaに当たる語は、北欧や中欧などで、通貨単位として使われている。例えば、クローナアイスランドスウェーデン)、クローネ(デンマークノルウェー)などだ。

 チェコスロバキア時代の通貨はコルナで、1993年にチェコスロバキアに分離して、通貨もそれぞれ「チェコ・コルナ」と「スロバキア・コロナ」になったのだが、2009年にスロバキアがユーロを導入して、コルナはチェコだけになった。チェコはユーロを導入していないので、すべての外国人は両替する必要がある。これがプラハで両替屋が目立つ理由だ。土産物屋などではユーロが使える店もある。クレジットカードは「どこでも使用可能」というわけではなく、店やホテルなどでは、「クレジットカードは使えるが、現金ならカードの手数料分3%値引き」というところもある。

 2018年10月時点で、1コルナは約5円。1ユーロは約25コルナである。コルナ以下の単位ハレシはあるが、コインは存在しない。スーパーマーケットなどで、9.48とか5.18といった価格表示があるが、おつりのコインがないので、実際は単品の場合、10コルナであり、6コルナと切り上げされるが、2品買った場合は、その合計金額14.66で切り上げて15コルナになる。消費税は内税の場合が多いが、たまに外税のこともあったが、課税対象と課税額は複雑なので、ちょっと滞在しただけの散歩者にはよくわからない。

 両替の話が長くなるので、以下は次回に続くことにする。

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1199話 プラハ 風がハープを奏でるように 第8回

英語を覚えるわけではなく

 

 英語の辞書があれば、会話がもっとうまくいったのになあということはあった。

 雑談をしていれば、わからない単語などいくらでも出てくる。そこでいちいち辞書を引いていたら、会話にならない。だから、わかっている振りをするのも会話の技術だ。昔は英和辞典を持っていて、わからない単語が出てくると、辞書を渡して、「その単語の説明文を見せて」と言ったりしたこともあったが、だんだん面倒になり、辞書を持って旅することもなくなった。それは数多くの英単語がこの頭に入り込んだという意味ではまったくなく、ただ単にズボラになったというだけだ。

 宿の台所は誰でも自由に使えたし、コーヒーや紅茶が飲み放題だったので、台所にもよく顔を出した。そこで知り合ったアメリカ人女性は私よりも年上に見えた。今回の旅の話から、かつて、医療ボランティアとして平和部隊などに参加して、さまざまな国に行ったというような話になった。その活動の話していると、近くにいた旅行者が、「あなたはドクターなんですね」と確認すると、「ドクターではあるけれど、DPTなの」といったが、これがわからない。「それは何ですか?」と質問すると、「Doctor of Physical Therapyのこと」という答えが返ってきたが、これもわからん。彼女は、DPTという略語の成立事情などを解説してくれたが、まるで分らないので、この件に関する質問はやめた。

 帰国してから調べると、それは理学療法士のことだった。日本語では読めるからわかったような気になっているが、具体的にどういうことをする仕事なのかさっぱりわからない。わからないという点では、日本語でも英語でもおなじことだ。だから、これは英語の問題ではなく、私の知識不足が問題なのだ。

 チェコの南部、オーストリアとの国境に近いチェスキー・クロムロフという小さな街に行った。今回の旅は、基本的にプラハにいる予定なのだが、プラハを知るには地方も少しは知らないといけないと思い、南部の街に行ったのだ。

 チェスキー・クロムロフの旧市街は200メートル四方くらいの小さな街だから、朝の散歩に出たら、前日プラハ駅のホームで会い、この街まで一緒に来た60代のオーストラリア人夫婦と出くわした。

 「小さな街だから、きっとどこかでまた会うわね」といって前日別れ、翌日の朝には再会するような街だ。

 ふたりといっしょに散歩した。ちょっと高い場所に登って街をじっと眺め、しばらく沈黙し、「トランキルっていう単語は知ってますか?」と妻の方が言った。

 「知りません」と答えると、「こういう景色はトランキルという語がぴったりなの」と言って、その語の説明をした。イギリス出身の彼女は、カナダでもアメリカでも、外国人に英語を教えていた経験があるので説明はわかりやすく、私の頭には「静寂」とか「静謐」(せいひつ)という語が浮かんだ。

 帰国してから調べてみると、その語は“tranquil”で、意味はやはり「静謐」だ。私は日本語でも英語でも小説を読まないので、こういう単語になじみがない。そして私にとって大事なことは、旅先で英単語をひとつ覚えたことではなく、その語を巡って言葉のやり取りをしばらくしたことだ。

 日本の若者も、外国でも日本語でスマホ遊びをしていないで、目の前の人間とどういうテーマであれ、こういう言葉のやりとりを楽しんでみればいいのになあと思うのである。

 「テーブルにスマホを置いて、何もしゃべらずに食事をしているカップルって、いるよね」と私が言うと、「そう、国籍に関係なく、いるわね。旅行中でもね。私たちには驚きよね」と彼女。

 中高年には信じられない光景なのだ。

 チェスキー・クロムロフの中心部。まあ、テーマパークだ。

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1198話 プラハ 風がハープを奏でるように 第7回

ドミトリー その2

 

 プラハで最初に泊まったドミトリーは8人部屋だった。部屋の中央にテーブルとイスがあり、そこで毎日雑談会が開かれた。政治や経済の話から、普段の生活の話や、失敗談など話題は豊富で、毎日が楽しかった。登場人物が少しずつ変わり、談論風発、百花繚乱、議論と爆笑の数時間が毎日続いた。

 こういう体験を、日本の若者も積極的にしたほうがいいと思った。教授が案内する異文化体験ツアーや国際キャンプなどは、旅行会社を儲けさせるだけだ。日本人の団体旅行で異文化を体験するというのは、日本人社会というカプセルに包まれて移動しているのだから、異文化体験は形容矛盾である。キャンプをして寝食を共にするといっても、同じ世代の同じような階層の若者と話をするだけのことだ。団体旅行そのものを否定する気はないが、異文化の風に吹かれたいなら、ひとりで異文化の渦に入って行った方がいい。

 毎夜の雑談会に参加するアジア人は私だけで、中国人も韓国人も参加しなかった。ロシア人も参加しない。雑談会に参加するには、高い壁がふたつある。

 ひとつ目の壁は英語の力だ。しかし、私も参加しているのだから、これはそれほど高い壁ではない。謙遜しているのではなく、私は本当に英語もロクにできないのだ。高校時代、英語ができない生徒たちのクラスに送られ、そのなかで特に出来の悪い生徒が私だった。そして、それ以後も、英語を特に勉強したことがない。それでも、旅行中はなんとかしている。その程度の英語力だ。

 安宿で、難解な文学作品を読んでいるわけではないし、英語のテレビ番組を見ているわけでもない。高度の専門用語が次々に出てくるわけでもない。私が楽しんだプラハの大雑談会では、英語を母語としている者はひとりもいない。もし、ここにアメリカ人とオーストラリア人とカナダ人がいて、彼らが口語や流行語やスラング交じりで,口角沫を飛ばしてしゃべりまくると、少なくとも私には手に負えなくなる。そうなれば、何もわからず沈黙するしかないのだが、幸せにも、そういう事態にはならなかった。

 もうひとつの壁は、英語力よりもかなり高い。好奇心の壁だ。雑談会が英語ではなく日本語ならば、どんな話題が出ても、日本人なら誰でも楽しく会話ができるというわけではない。雑談を楽しむ好奇心が、語学力よりも重要なのだ。だから、たとえ高校卒業までロサンゼルスで育だち、アメリカ生活では英語で苦労することはないという日本人でも、カザフスタンキルギスタンの政治や経済がどうなっているのかという話題に、はたしてついていけるかどうか。自分にその地域の知識がまったくなくても、「ふんふん、それで・・・」と次の質問をしたくなる好奇心があるかどうかが問題なのだ。

 宿の台所で始まったある日の雑談会のメンバーに、スペイン人の医大生がいた。「子供のころ、プラハで暮らしていたことがあって・・・」という発言で話が広がり、「スペインの医師免許はEUでは使えるのか」という話題になり、「言葉の問題があるよなあ」というと、「中南米ならスペイン語だから・・・」というと、「中南米ではスペインの医師免許はそのまま使うことはできないような話は聞いたなあ」などと話題が移る。そして、各種免許とEUという話題になり、この医大生の実家がモロッコのスペイン領セウタにあることがわかり、モロッコの話がしばらく続き、物価の話から日本の物価が話題になり、「日本は高い!」と言うから、「それは昔の話。日本の物価は、今は安いぞ。だから、中国人がいくらでも来る時代になったんだ」と私が解説する。こうして時間が過ぎていく。

 私は知りたがりだから、ドイツの外国語教育事情だの、サラリーマンの昼食事情だの、聞きたいテーマなどいくらでもある。国際情勢や環境問題に関する知識はあったほうがいいに決まっているが、知識がなくても、会話が成り立つには「知りたい」という意思表示が必要だ。大雑談会は、大学の授業のように、ただ黙って座っていれば時間が過ぎて「おしまい」にはならない。黙っていては会話にならないのだ。出席点などない学校が、ドミトリーの雑談会だ。教授が案内する団体旅行などよりも、はるかに勉強になるのだが、私のこういうブログを、大学生はそもそも読まないよなあ。

  

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1197話 プラハ 風がハープを奏でるように 第6回

ドミトリー その1

 

 夜、プラハに着いた。それから宿探しをする気は初めからないから、宿は日本で予約しておいた。チェックインをして、「12号室です」と言われてカギを渡された。2階の12号室のドアを開けたら、Tシャツに短パン姿の若い女がふたりいた。慌ててドアを見たが、「12」と書いてある。フロントに戻って、「すでに客がいる!」と訴えたが、「はいそうですよ。あいているベッドに寝てください」と平然と言う。そんなはずはない。私は個室を予約したんだ。ドミトリーじゃない。もう何十年もドミトリーには泊まっていない。そう言った

 「予約はドミトリーで入っています。それが嫌なら、キャンセルしますか?」

深夜に荷物を持って知らない街で宿探しをする気はない。とりあえず、今夜はドミトリーにしよう。それ以外の選択肢ない。

 ドミトリーというのは、そもそもの意味は学生寮のようなものらしい。大部屋といえばいいか、ベッドがいくつもある部屋だから、通常はひとりで個室に泊まるより安い。狭いドミトリーでは、2段ベッドひとつというふたり部屋、つまり相部屋を体験したのはイスタンブール。バレーボールコートよりもはるかに広い部屋に、2段ベッドが30か40はあったかなあと記憶しているのがアムステルダムの宿。60人か80人の相部屋だ。そして、私のドミトリーの最後の体験は、たぶん、1983年のアテネだろう。それ以後、旅行先をアジアに移したので、ドミトリーには泊まらない。個室でも宿代は安いし、アジアにいるのに西洋人がかたまっている西洋世界にどっぷりつかっているのはつまらんと思ったからだ。

 久しぶりのドミトリーは、実に愉快だった。4日間の自由時間ができたから、ベルリンからオートバイで来たというドイツ人大学生。国際関係論専攻だといった。同じく国際関係論を専攻している大学院の留学生は、ジョージア出身の若者。「ジョージアから来ました」と自己紹介したから、「アメリカと言えよ」と思った瞬間、ああ旧姓グルジアかと気がついた。「ポルトガルから来ました」という30代後半の男は、肌が黒かった。モザンビーク出身の父親がインドに留学し、ゴアで知り合ったインド人女性と結婚して帰国したら、モザンビークポルトガルから独立したので、ポルトガルに移住して生まれたのが私ですと自己紹介をした。ポルトガルに行ったときに、ポルトガルの現代史をちょっと頭に入れたので、こういう話はよく理解できる。

 小さなデイバッグだけを手に部屋に入ってきた男がいたので、「まるで家出少年みたいだね」と言ったら、「いやあ、これには深い事情があってね・・・」と、その事情を話し出した。

 30代後半の彼はウクライナ人の会社員。化学方面の研究者で、プラハで学会があるので前日にプラハに来たのだが、「家を出て空港に向かう途中、荷物を家に忘れてきたことに気がついたけど、もう遅い。あとから家族がプラハに来て合流するから荷物の心配はないんだけど、ちゃんとしたクレジットカードも女房が持っていてさ・・」

 彼が今持っているクレジットカードは、米ドルでもユーロでも支払いはできるが、チェコの通貨コロナには対応をしていない。だから、ATMでいったんユーロに両替し、それをコロナに再両替すれば「使えるカード」になるのだが、再両替は大損する。あらかじめ予約しているホテルの支払いができないのでキャンセルし、手持ちのユーロ札を両替して、今夜はこの安宿に泊まることにしたという。

 このウクライナ人が来るまで部屋で話しをしていたのが、ドイツ人大学生とポルトガル人と30代後半のドイツ人。みんな、かなりのインテリである。中欧、東欧の政治や経済の話をしていた。ドイツ人大学生がスマホで地図を出し、国を指さしながら話をした。30代後半のドイツ人が、地名がまったく入っていない地図で元ソ連圏の事情を解説するので、「この地域に詳しいですね」と言ったら、「私はここの出身だから」と地図上の国を指さした。地名のない地図だが、そこは私にもわかった。アルバニアだ。「18歳で、ドイツに渡ったんだ」と言った。彼の現在の国籍をたずねていないから、アルバニア人と言えばいいのかドイツ人といえばいいのか、わからない。宿の会話では国籍なんかどうでもいいのだが、文章にしようと思うとちょっと手間がかかる。

 達者な英語をしゃべるので、「どうやって英語の勉強をしたんですか?」と聞いたら、ちょっとはにかみながら、「私が通った高校がちょっと特別なところで、授業の半分は英語でやっていたんです。だからドイツにいったとき英語では不自由しなかったけど、ドイツ語は苦労しましたよ」

 アルバニア社会主義人民共和国時代を終えて、アルバニア共和国になったのは1991年。今、目の前にいる「アルバニア人」が35歳だとすると、91年には8歳。社会主義時代の記憶はあるが、自由主義経済に入ってから教育を受けていることになるのだなあなどと考えていた。

 

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1196話 プラハ 風がハープを奏でるように 第5回

 チェコプラハの基礎知識

 

 チェコは、日本語ではチェコ共和国チェコ語ではČeská republikaチェスカー・レプブリカ、英語では Czech Republicチェック・リパブリック。英語のCzechは、国名のほか、チェコ人、チェコ語、そして「チェコの~」を表す形容詞にもなる。

 人口は、東京都よりもかなり少ない1058万人(2017年)、面積は約7万8000平方メートルで、北海道とほぼ同じ。国境を接するのは、北からポーランドスロバキアオーストリア、ドイツの4国。内陸国なので、海はない。

 首都はプラハチェコ語でPraha。日本語に近い音だが、プハと「ら」の音が巻き舌になる。英語ではPragueプラーグ。プラハの面積は約500平方キロ。正方形なら、22キロ四方という感じ。首都プラハの人口は、京都市よりやや少ない128万人(2017年)だ。ちなみに、1996年にプラハ京都市姉妹都市になっている。街の標高は200~400メートルくらいの盆地で、寒暖の差が大きい。旧市街を歩いているだけなら平坦な街だと思うかもしれないが、中心部から少し離れると急坂や断崖に出会うことがある。

 言語事情は別項目で解説するが、チェコ人が全人口の94パーセントで、ほかの民族もチェコ語母語として育っているので、大きな言語問題はない。歴史的に、ドイツ語を使う時代があったり、ロシア語の学習を強制された時代もあったが、現在の、特に若い人たちの第一外国語は英語である。

 歴史の話を、ほんの少し。

 古代や中世には日本人には見慣れない王国名がいくつも登場するので、ここでは省略する。ごく簡単に言えば、チョコ人が住む王国は、近隣の王国の支配を受け続けた歴史が長くあり、特にドイツ人が移民となって住み着き、技術や学問の先導者になった。ドイツ人やドイツの教育を受けたチェコ人が、チェコ語しか話さない人々を支配して工業国になっていくのが19世紀までのチェコだが、ドイツからは遠いスロバキアはずっと貧しい農業国であった。

 2018年のチェコを旅すると、「1918~2018」という表示をよく見かける。これは、チェコを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国第一次世界大戦で敗れ、1918年に晴れて独立したからである。それから100年ということで、写真などを使った回顧展が各地で開催されていた。歴史が異なるチェコと、ハンガリー王国に支配されていたスロバキアが統合して独立して、1918年にチェコスロバキアという国が誕生した。初代大統領はトマーシュ・マサリク。

 独立の喜びは20年しか続かなかった。1938年、ナチス・ドイツは、ドイツ人が多く住むズデーテン地方(ドイツとの国境周辺の地域)を割譲せよと要求してきた。できれば戦争を避けたいイギリスとフランスは、この問題の解決案をチェコに示した。チェコがドイツに領土の一部を割譲すれば、英仏独はチェコの安全を保障するというもので、これがミュンヘン協定である。

 チェコはやむなく、この協定を受け入れて、国境地域の領土をドイツに割譲することに同意すると、ポーランドハンガリーも同様の要求をしてきた。チェコスロバキアの内紛に乗じて、ドイツはチェコ保護領にし、スロバキアハンガリー領となり、第二次世界大戦に進んでいく。

 1945年、戦争が終わった。チェコ人の対外感情は、チェコを支配したドイツに対する反感と同時に、屈辱的なミュンヘン協定を迫ったイギリスとフランスに対しても、反感があった。そして、ドイツと戦いチェコスロバキアを解放したソ連に対しては好感を持った。そういう感情があったので、終戦後、国土を回復し、チェコスロバキアという国家がまた生まれると、共産党が力を持ち、親ソ連の政権ができる要因のひとつとなった。つまり、戦後間もなくの時点では、ソ連が武力でチェコスロバキアを支配したわけではなく、ソ連を受け入れる勢力があったのだが、共産党が力を持つと、反共産党勢力は排除されていった。

 1968年、共産党は自由化を押し進める「人間の顔をした社会主義」をめざしたのが「プラハの春」であり、この動きに対してソ連ワルシャワ条約機構の4か国(ポーランドブルガリアハンガリー東ドイツ)とともに、チェコスロバキアに戦車で侵攻して恐怖を与えた。チェコの歴史を調べていてたった今知ったのは、中ソ対立により、反ソビエト・親中国に進んだアルバニアは、この「プラハの春」事件に抗議して、ワルシャワ条約機構を脱退した。中国を取材していた朝日新聞記者の本多勝一が、鎖国状態にあるアルバニアに突然入国可能になった(1971年)裏には、そういういきさつがあったことを思い出した。

 自由化への動きはソ連の圧力を受けて封じられ、ソ連が望むよう政策を進めることを、チェコスロバキアの政治用語では「正常化」とカギかっこ付きで書くらしい。

 真の自由化が実現するのは、1989年。無血革命なので、ビロードの手触りのようにスムースにという意味で、これをビロード革命という。1993年には、スロバキアが分離独立して、チェコスロバキアに分かれ、チェコ共和国スロバキア共和国が誕生した。分離独立に混乱がなかったので、これを「ビロード離婚」と呼ぶらしい。2004年に、スロバキアとともにEUに加盟した。

 プラハ城と、そこに建つ聖ビート大聖堂

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1195話 プラハ 風がハープを奏でるように 第4回

機内映画と吹き替え

 

 中国国際航空の機内映画環境はひどかった。モニターがフリーズしてしまったので、乗務員に苦情を言ったら、「乱暴に扱うからですよ!」と私のせいにする。「それでは、正しい扱い方を見せていただけますか」とあえて、嫌みったらしくていねいに言った。

 乗務員はボタンをいじったりいろいろするが、どうにも動かない。映画を見ている乗客もいるから、全体的な問題ではない。そこで、乗務員はこう言った。「別の席に移ればいいじゃないですか。どこでも好きな席へどうぞ」。空席が多いから、きちんと作動するモニターを探せというのだ。すぐ近くの席に移って、モニターのスイッチを入れたが、すぐにフリーズした。「どうすればいいの?」と言うと、「少々お待ちください」と言ったまま消えた。20分たっても、30分たっても、モニターに変化はないし、乗務員も戻ってこない。面倒な客は無視された。こういうのが中国だと思うから、私は中国には行かないのだ。毎日ケンカするような旅はしたくない。

 さて、今年のアエロフロート・ロシア航空だ。ちなみに、ひとくちメモを書いておくと、アエロは英語ならairだということはすぐにわかるが、フロートは艦隊の意味で、英語だとfleet。

 今回のアエロフロート・ロシア航空最大の問題も映画だ。モニターの機能には問題はない。世界の映画に日本語の字幕がついているなどという期待は初めからしていないから、英語の字幕で満足しないといけないと覚悟している。そこで、試しに韓国映画を見てみると、弁士だ。どんな映画でも声優は男女ふたりしかいない。会議やケンカでも、ひとりがすべてのセリフをしゃべる。大声でしゃべっているから、ほかの音が消えている。セリフの遠近強弱など一切関係ない。ただただセリフを読むだけだ。世界のいくつもの国では、外国映画の翻訳したセリフをただ読んでいるだけのスタイルの映画がある。

 こういう吹き替え映画を見ていて、昔の不愉快な出来事を思い出した。もう30年近く前のことだ。ある編集者と雑談しているところに、若き研究者が姿を見せた。たぶん、大学講師になったくらいだろう。彼の研究テーマはアジアの大衆文化ということで、テレビ番組や映画の話をした。編集者が「アジアでは外国映画は字幕ですか、吹き替えですか?」と聞いたので、「吹き替えが多いです」と私が答えると、その研究者は「いえ、違います。多くの貧しい国々では字幕なんですよ」と自信満々で言った。無知なライターと編集者に、専門家が教えてあげましょうという態度だから、「その理由は、わかります?」などと我々に質問してきた。授業かクイズのつもりか?

 「吹き替えだと、声優の人件費がかかって、練習とか手間がかかりますでしょ。字幕なら、翻訳して画面に貼り付けたらおしまいだから、費用が安く済むんです」としたり顔。「あほらし!」と思ったから、私は沈黙した。それぞれの国の識字率がどれだけなのか。字幕の言語を読める人がどれだけいるのか。文字が読めるということと、映画の字幕を瞬時に読み取れるというのは別の能力なのだ。日本人のほとんどは日本語を読めるが、字幕を読めない、読みたくないという若者が多くなったから、シネマコンプレックスでは字幕版と同時に吹き替え版も上映しているのだ。

 吹き替え版制作に費用がかかるといっても、活弁式にすれば、字幕よりも安い。台湾や香港では日常的に字幕を見かけるが、それが第三世界の常識ではないというようなことは、その場では言わなかった。

 私も編集者も、そのくらいのことはわかっているが、無視した。教えてあげないのだから、優しくないといえば、確かに優しくない。私もまた、相手が専門家とは知らずに知ったかぶりの解説をして得意になっていたことがあるかもしれないと思うと、我が身を反省せねばと思った。

 アエロフロート・ロシア航空機内で、昔の、そんなことを思い出した。

 弁士のロシア語に邪魔されつつ我慢してみた映画の1本が、韓国映画「1987」。歴史的背景はすでによく知っているから、内容は理解できたが、満足感はない。名作のひとつだから、見直さないといけない。

  本文とはまったく関係ないが、カット代わりにプラハ動物園のバク。

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