機内映画と吹き替え
中国国際航空の機内映画環境はひどかった。モニターがフリーズしてしまったので、乗務員に苦情を言ったら、「乱暴に扱うからですよ!」と私のせいにする。「それでは、正しい扱い方を見せていただけますか」とあえて、嫌みったらしくていねいに言った。
乗務員はボタンをいじったりいろいろするが、どうにも動かない。映画を見ている乗客もいるから、全体的な問題ではない。そこで、乗務員はこう言った。「別の席に移ればいいじゃないですか。どこでも好きな席へどうぞ」。空席が多いから、きちんと作動するモニターを探せというのだ。すぐ近くの席に移って、モニターのスイッチを入れたが、すぐにフリーズした。「どうすればいいの?」と言うと、「少々お待ちください」と言ったまま消えた。20分たっても、30分たっても、モニターに変化はないし、乗務員も戻ってこない。面倒な客は無視された。こういうのが中国だと思うから、私は中国には行かないのだ。毎日ケンカするような旅はしたくない。
さて、今年のアエロフロート・ロシア航空だ。ちなみに、ひとくちメモを書いておくと、アエロは英語ならairだということはすぐにわかるが、フロートは艦隊の意味で、英語だとfleet。
今回のアエロフロート・ロシア航空最大の問題も映画だ。モニターの機能には問題はない。世界の映画に日本語の字幕がついているなどという期待は初めからしていないから、英語の字幕で満足しないといけないと覚悟している。そこで、試しに韓国映画を見てみると、弁士だ。どんな映画でも声優は男女ふたりしかいない。会議やケンカでも、ひとりがすべてのセリフをしゃべる。大声でしゃべっているから、ほかの音が消えている。セリフの遠近強弱など一切関係ない。ただただセリフを読むだけだ。世界のいくつもの国では、外国映画の翻訳したセリフをただ読んでいるだけのスタイルの映画がある。
こういう吹き替え映画を見ていて、昔の不愉快な出来事を思い出した。もう30年近く前のことだ。ある編集者と雑談しているところに、若き研究者が姿を見せた。たぶん、大学講師になったくらいだろう。彼の研究テーマはアジアの大衆文化ということで、テレビ番組や映画の話をした。編集者が「アジアでは外国映画は字幕ですか、吹き替えですか?」と聞いたので、「吹き替えが多いです」と私が答えると、その研究者は「いえ、違います。多くの貧しい国々では字幕なんですよ」と自信満々で言った。無知なライターと編集者に、専門家が教えてあげましょうという態度だから、「その理由は、わかります?」などと我々に質問してきた。授業かクイズのつもりか?
「吹き替えだと、声優の人件費がかかって、練習とか手間がかかりますでしょ。字幕なら、翻訳して画面に貼り付けたらおしまいだから、費用が安く済むんです」としたり顔。「あほらし!」と思ったから、私は沈黙した。それぞれの国の識字率がどれだけなのか。字幕の言語を読める人がどれだけいるのか。文字が読めるということと、映画の字幕を瞬時に読み取れるというのは別の能力なのだ。日本人のほとんどは日本語を読めるが、字幕を読めない、読みたくないという若者が多くなったから、シネマコンプレックスでは字幕版と同時に吹き替え版も上映しているのだ。
吹き替え版制作に費用がかかるといっても、活弁式にすれば、字幕よりも安い。台湾や香港では日常的に字幕を見かけるが、それが第三世界の常識ではないというようなことは、その場では言わなかった。
私も編集者も、そのくらいのことはわかっているが、無視した。教えてあげないのだから、優しくないといえば、確かに優しくない。私もまた、相手が専門家とは知らずに知ったかぶりの解説をして得意になっていたことがあるかもしれないと思うと、我が身を反省せねばと思った。
アエロフロート・ロシア航空機内で、昔の、そんなことを思い出した。
弁士のロシア語に邪魔されつつ我慢してみた映画の1本が、韓国映画「1987」。歴史的背景はすでによく知っているから、内容は理解できたが、満足感はない。名作のひとつだから、見直さないといけない。
本文とはまったく関係ないが、カット代わりにプラハ動物園のバク。