1194話 プラハ 風がハープを奏でるように 第3回

アエロフロート・ロシア航空

 

 アエロフロートの話をしておきたくなった。その昔、1970年代は、アエロフロートエジプト航空パキスタン航空などと並んで、「安いから我慢するしかない航空会社」のひとつだった。「ヨーロッパに安く行くならアエロフロート」という時代があった。

 私が初めてアエロフロートに乗ったのは、1975年、ロンドンに行く時だ。往復切符を買えば比較的安かったのだろうが、それはどうにもおもしろくなさそうな旅に思えて、片道切符で日本を出ることにした。そのほうが絶対におもしろいと思ったからだ。横浜発のソ連船に乗ってソビエトのナホトカ。鉄道でハバロフスクへ。そこから飛行機でモスクワ。数日滞在して、飛行機でロンドンというコースで、驚くなかれ、片道15万5000円だった。飛行機を使わずに、全コース鉄道を使っても、食費などを考えたら費用の差はほとんどないという情報を得たいたが、それが正しいかどうか確認しなかった。退屈な鉄道旅行だと思ったからだ。当時は、飛行機で直接ロンドンに飛べば、旅行会社によっては片道12万円、往復25万円程度で手に入った。当時はこれでも「格安航空券」だったのである。数年前なら、こんなに「安い」航空券はなかなか手に入らなかった。

 ハバロフスク・モスクワ間のアエロフロート国内線がすさまじいものだったので、国際線のモスクワ・ロンドン間がどうだったかという記憶がない。イリューシンという名の飛行機だったことは覚えている。事前に、旅行会社の人から、「あの飛行機は我々の間では『空飛ぶ按摩機』と呼んでいるんですよ。振動がすさまじくてね」という解説を受けてはいたが、その実態は想像を超えていた。防音設備などついていない大型発電機の上にパイプ椅子を乗せて座っているようなものだった。振動がすさまじく、騒音が耳を襲う。隣の人と話をするにも、耳元で大声を出さないといけない。旅客機のふりをしている輸送機だ。食事と呼べるものが出た記憶はないが、何かの飲食物は出た。なぜそれを覚えているかというと、テーブルが前の座席の裏についている現在のスタイルではなく、スチュワーデスやスチュワードが工事現場の足場板のようなものを持ってきて、板の一方を側面のどこかに差し込み。もう一方は折り畳み式の脚が板を支えたという記憶がある。飛行機はそれほど小さかったというわけではないが、機内は狭かった。その理由は、機内中央に3段ほどの狭い階段があり、その先が見えなかったからだ。前部はVIP席だったのかもしれない。2階建てでもないのに階段がある飛行機は、この機種しか知らない。

 食事を終えたら、トイレに行きたくなった。階段を上がったあたりにトイレがあるだろうと想像したが、行けばすぐにわかった。匂ったからだ。階段を上がった右側に衣料品店の試着室のようなものがあり、半分開いたカーテンの向こうに、男子小用便器とそこを飛び交うハエが見えた。匂いも光景も、公園の公衆便所のようだった。

 あれから43年もたったのだから、昔ながらのイリューシンが登場するわけはない。記憶はあいまいだが、今回は成田・モスクワ間はエアバス330、モスクワ・プラハ間はボーイング737だったと思う。イリューシンソビエト崩壊に合わせて廃棄処分されたのかと思ったが、調べてみればまだ運航しているらしい。その昔製造した機材は、国内線や貨物、そして北朝鮮の国際線で飛行しているらしい。

 今回のアエロフロート・ロシア航空最大の問題については次回に書くが、全体的には「中国最高の航空会社である中国国際航空エア・チャイナ」(中国の旅行事情に詳しい友人談)と比べても、格段に良かった。

 ついでに書いておくと、中国もロシアも、アメリカと同じように、単なる乗り換えだというのに。パスポートチェックをやることだ。中国は長蛇の列を作らされて3回のパスポートチェックがあったが、ロシアは1回だった。問題が多い国が、こういうことをやるのだろう。

  モスクワの写真がないので、プラハの写真をカットがわりに。

f:id:maekawa_kenichi:20181106134018j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20181106134107j:plain

 

 

1193話 プラハ 風がハープを奏でるように 第2回

誰も気候の話を信じてはならぬ

 

 「わたしの一家がプラハに移り住んだのは、一九五九年の十一月で、すでに気温は氷点下一〇度を下回る日々が続いていた」(『旅行者の朝食米原万理、文春文庫、2004)

 「チェコに行こう」と決めて、ずっと前に買ったチェコ関連の本を本棚から集めて、段ボール箱に入れた。チェコ棚を作るスペースはないから、箱に集めたのだ。前回紹介した『タビト プラハ』も、この文春文庫も、ずっと前に買っていた資料だ。

 プラハの寒さを知って、寒いのが大嫌いな私は、旅行先を熱帯にしようかと考えたが、熱帯にプラハほど魅力的な街は見つからず、それならできるだけ早く日本を出るしかない。大学講師としての仕事は9月中旬まで拘束されているから、そのあとすぐに日本を出ることに決めた。サンタモニカに住む友人から「久しぶりに日本に行くことに決めた。航空券の手配も済んだ。10月の東京で会いましょう」というメールが届いたが、10月上旬まで日本にいたら、氷点下のプラハを旅することになる。「ごめん。そのころは日本にいないから」とメールを送った。「逃げたな」と返信が来たが、寒いのが嫌なだけだ。

 安いことと、怖いもの見たさで、アエロフロート・ロシア航空を利用した。1975年以来の大英断だ。モスクワ経由プラハ行き。乗り換え時間がちょうどいいのも利点だ。

 飛行機がモスクワ・シェレメチェボ空港に着いた。前回は1975年の8月だったが、飛行機の丸窓から見えたのは、夏だというのに綿入りのコートを着た作業員の姿だった。あの格好は東京の冬では暑すぎる、真冬の札幌の作業風景だなと思った。8月のモスクワではそういう服装なのだ。私は夏の服装でタラップを降り、バスに乗った。

 その時の記憶が鮮烈だったので、今回は機内に持ち込んだショルダーバッグにはユニクロの羽毛服、ウルトラライト・ジャケットを入れていたというのに、2018 年9月のモスクワの空港風景は、ギラギラと太陽が輝いていた。タラップを降りてバスに向かうのだが、成田を出た時のシャツで寒くない。モスクワが、成田と変わらない気温だ。

 2018年9月。深夜、プラハに着き、翌日。朝はちょっと涼しいという程度だったが、昼前にすでに暑くなった。宿で会ったドイツ人大学生に、「秋のプラハがこんなに暑いとは思わなかったよ」と言うと、彼はスマホを取り出し、「きのうの気温は32度、きょうは31度らしいよ」と、こともなげにいう。寒さ恐怖症の私は、日本を出る朝、着ていた半そでシャツを脱ぎ、ユニクロヒートテック極暖に着替えたのだ。それなのに、気温31度かよ!

 プラハは北緯50度にある。ロンドンやアムステルダムよりは南だが、カラフトの位置だ。プラハは盆地なので、気候の変動が激しい。

 ドイツ人大学生はスマホからノートパソコンに変えて、「ボクが住んでるベルリンだって、暑いんだよ、ほら」と気温の資料を見せてくれた。1950年代に1度だけ30度を越えた日があったが、それから長らく30度の壁は越えなかった。2010年以降、30度越えは珍しくなくなった。

 「今年の夏は38度が最高だったし、ほら、いまでも30度を越えているでしょ」。パソコンのモニターに今週のベルリンの天気が出ている。ベルリンも、30度を越えている。地球は、確実に暑くなっている。

 暑くてたまらないのに夏服を持っていないので、C&Aに行ってTシャツを買った。C&Aというのは、アジアではなじみがないが、1841創業のベルギーの衣料品店チェーン。日本でいえば、「しまむら」の感じか。安いのがありがたい。そのせいだろうが、おそらく近隣諸国から来たと思われる家族がひとかかえの服を買っている光景を何度か見ている。チェコではスーパーでもこういう店でも、商品を袋に入れないから、袋に入れたければ持参するか、袋を買うことになる。まとめ買いの家族は、ふとん袋のように大きな袋を持参していた。

 「暑いプラハ」は10月に入っても続き、昼間なら半そでシャツで過ごすことができた。旅行者たちは、「いつもなら・・・」とか、「ガイドブックでは・・・」と言いながら、この高温をいぶかしげにしているが、「例年」というのがないのが、昨今の気候だ。

 おかげで、ユニクロのウルトラライトダウンのジャケットとベストは両方とも一度も袋から出すことはなかった。寒さが苦手な私の過剰防衛だったかもしれない。結果的には、ウインドブレーカーがあればいいという程度の気温だった。

 今年2月にはマドリッドで雪に会うし、モロッコのラバトでは、夜あまりにも寒くて、羽毛服を着たまま重いふとんに潜り込んで寝たほどだ。水シャワーなど冗談ではなかった。

 気候のことは、誰にもわからん。

 *新しくされてしまったこのブログでは、本文文字の書体や太さ大きさは決められ、改行1行アキに規定されてしまっていて、どうにもならない。不本意ですが、私の力の及ばない場所での暴挙なので、泣き寝入りしかないのか?

f:id:maekawa_kenichi:20181104091726j:plain

 

f:id:maekawa_kenichi:20181104091942j:plain

 

 

1192話 プラハ 風がハープを奏でるように 第1回

夢の中でも

 旅を終えて帰国しても、夜ごとプラハが夢に出てくる。帰国したばかりだと、まだ旅をしている感覚だったり、夜中に目覚めたときに、自分は今どこにいるんだろうかと考えることはもう何十年も前からある。朝、目が覚めて、「ああ、日本か。ホテルじゃないんだ。旅は終わってしまったのか」と感じることもよくある。しかし、毎晩のように夢で異国を散歩しているという体験は初めてのことだ。日本にいても、夜になると石畳のプラハを散歩している。
 チェコプラハで、大事件に遭遇したわけではない。残念ながら、恋愛映画になるような、一生忘れられない感動的な出会いがあったわけでもない。いつものように、ただ、散歩をしていただけだ。それなのに、プラハが毎夜夢に出てくるのは、昼間もチェコ漬けになっているからかもしれない。旅に出る前にも多少はチェコの本は読んでいるが、そんなものはほとんど意味がないことは体験的によくわかっている。旅行先の歴史も地理もわからないうちにいくら資料を読んでも、頭にまったく入ってこないからだ。だから、帰国してすぐに、すでに集めた資料をまた読みつつ、まだ手に入れていない資料を次々にアマゾンに注文し、その結果日刊アマゾンのごとく毎日本が届き、段ボール箱いっぱいになりつつある本を、あるときは読み飛ばし、あるときは市内地図を手元に置いて精読し、「ああ、そうだったか」と納得し、チェコ語に関する資料を読んで発音を確認し、論文をインターネットで読み、手に入りにくい本は図書館に行って借りてきて読むという生活をしているうちに、ついにプラハが夢に出てくるようになった。
 春先から、今年の秋はどこに行こうかと考えていた。旅行先を選ぶ条件のひとつは、「ひと月散歩をしていても飽きない街」だ。散歩の楽しい街は世界にいくらでもあるが、「ひと月遊べる」という条件を付けると、大阪のほかそう多くはない。世界地図を頭に浮かべて、そういう街を探した。ニューヨークやサンフランシスコにまた行きたいが、滞在費が高くなりすぎる。ロサンゼルス郡のサンタモニカに住む友人が「ウチに来ればいい」と言ってくれたが、ロサンゼルスほど散歩と相性の悪い街はない。「せっかくの好意だけど、サンタモニカはごめんだな」と返事を書いた。
 いままで行ったことのない国にしようと思った。これまであまり多くの国を旅していないので、行ったことのない国などいくらでもあるが、それだけの理由で行ったことがない国に行く気にならない。訪問国を増やすというスタンプラリーのような趣味は、私にはない。今年4月に大阪から帰ると、次の旅行先を考えた。チェコプラハポーランドワルシャワハンガリーブダペストの3都市が頭に浮かんだ。いずれの街にもまだ行ったことがない。この3都市を候補にしたのは、地中海の国々は行ったから、少し北に視線を上げて、「もしかすると、おもしろいかもしれない」という勘だけで選んだ街だ。「建築を見るならプラハかな」という程度の理由で、3候補からプラハを選んだ。通常のツアーなら10日間もあれば3か国くらいは旅するから、この3都市も一気に訪問できるだろうが、旅は効率を求めるものではない。移動ばかりのあわただしい旅はいやだ。「腰を落ち着けて、プラハに最低ひと月」が基本だ。そのくらいの時間をかけないと、初めての街の魅力はわからない。ひと月あれば充分というわけではもちろんないが、まあ、とりあえず、ひと月。
 毎日プラハを散歩した。そして、プラハは実におもしろかった。気に入った。もし、チェコ政府観光庁のポスターにキャッチコピーを入れるなら、「きっと、あなたもプラハが好きになる」がいいかなあなどと思いながら散歩をしていた。居心地がいいのである。
 プラハの魅力を伝えるにはどう表現すればいいか考えているときに、だいぶ前に買った資料を再読して、わかった。
 『地球・街角ガイド タビト 6 プラハ』(同朋舎出版、1995)のプロローグに、千野栄一は「プラハは歩いて!」と題してこう書いている。以下、最初の節を引用する。

 永らくフランスに亡命していたチェコの作家ヤン・チェプがCOR PATRIAE(祖国の心)と題する一文の冒頭で、「愛を告白する以上に、どのようにしてプラハについて語れるであろうか? その名を口にするだけで、風がハープを奏でるように心がときめくのをどうして妨げよう」と言っているが、プラハを一度でも訪れた人は同じ思いを抱くに違いない。

 プラハの魅力は、私にとって具体的に「これ!」というものはない。観光名所や雑貨の買い物でもない。ましてや、料理ではない。いつまで散歩をしても、けっして飽きない街。ひと月散歩して、「もっと居たい」と思いつつ帰国するのが、理想的な街だ。私にとって、それが魅力的な街で、それがプラハだった。確実に、プラハの風が私の心に吹き寄せた。
 幸せにも、私はプラハと出会った。そして、これから、そのプラハの話を書き始める。長くなると次の旅に出られなくなるから、簡単に書こうとは思っているのだが・・・。
 さあ、書くか。


 到着した翌朝に見た風景。国立博物館は改装工事中で入れなかった。

1191話 キャッシュカード大事件 後編


 銀行待合室にいる世話係りは、定年退職した元行員なのだろう。そのひとりに声をかけ、キャッシュカード再発行の書類をもらった。新しい暗証番号を書く欄がある。今年は「2018」が一番多いのだろうか、それとも自分以外の誰かの誕生日だろうかなどと考えた。アメリカでは、コンピューターなどで使うパスワードでもっとも多いのは、”password”だそうで、記入欄にpasswordと書いてあるから、忘れることもなければ、綴りを間違えることもない。
 キャッシュカードの4桁数字はそういうわけにはいかないので、今度は根拠のある番号にした。これで忘れるようでは、住所氏名に電話番号を刻印したペンダントに暗証番号も加えて、首からつるしておくしかない。
 番号札を手にして順番を待っていると、「渉外係り」という名刺を持った人がやって来た。投資や国債の「ご案内」だという。国債100万円を買うと1000円ほどの収入になるとかなんとか言っているが、もとより関心がないので上の空。銀行内だから行員を追い出すわけにもいかず、ぎりぎりまで耐える。
 順番が来た。再発行申請書類を出す。身分証明書は、運転免許証がないので、健康保険証を出す。
 「顔写真が載っている証明書はお持ちですか?」というので、そういうこともあろうかとパスポートも出す。
 「キャッシュカードの再発行には1080円の手数料がかかりますが、クレジット機能もついているカードに変更すると、手数料はかかりません」と資料を出した。visaやMasterはすでに持っているが、Amexという文字が見えた。旅行保険付きで、しかも、年会費無料。
 「はい、みずほのキャッシュカードにアメックスもつけるなら、年会費は無料です。カード再発行手数料もかかりません」
 これは「みずほマイレージクラブカードセゾン アメリカン・エキスプレス・カード・ベーシック」とい長い名前のカードで、年会費無料なのに、死亡・障害で1000万円、傷害治療100万円などとなっている。アメックスカードはいちばん安い年会費で12000円。ANAと提携しているカードで6000円だ。それが無料なら、得だ。「障害100万円」となっているが、「疾病」とはなっていないあたりがポイントなんだろう。
 この日、帰宅してすぐに、天下のクラマエ師こと蔵前さんに、「みずほでは、アメックス付きキャッシュカードだと年会費無料だよ」とメールを送ったら、「へー、無料か。でも、審査があるんだけどね、フフフ」と返信があった。そうなんだ。キャッシュカードにアメックスの機能も付くシステムがあるからと言って、この前川が審査に通る保証などまったくないのだ。
 過去に蔵前さんとはクレジットカードを巡る話は何度かしていて、最初は私がパソコンを導入しようかどうか考えていた時で、プロバイダー料金の支払いをクレジットカードでやるのだが、貧乏ライターは審査に通らないとグチを言った。知り合いのライターは妹のカードを借りていた。別のライターは、銀行員の「大丈夫です、お任せください」というしつこいセールスに負けて、クレジットカードの申請書を出したら、ひと月後に「今回は残念ながら・・・」という返事が来た。大学講師もしている友人のライターは、正業についている妻のカードを借りていた。「学生でも持っているのになあ・・・」と寂しげであった。香港物で知られるかの山口文憲氏は、クレジット機能付きの西友のカードを申請して拒絶されたという体験談を書いていた。私はクレジットカード付きのイトーヨーカドー・ポイントカードを申請しようか考えていた時なので、ショックだった。そういう時代だったのだ。
 クレジットカードについて、ちょっと前にも蔵前さんと話をした。旅行保険のことだった。年齢が高くなると、旅行保険料も高くなるというようなことを私が言ったら、「旅行保険って、入っていないんだ。クレジットカードに旅行保険がついているから」
 「カードの保険じゃ、大したことないでしょ」
 「普通のカードならそうだけで、ゴールドカードだとちゃんとしているよ。前川さんも持てばいいじゃない、ゴールド」
 スーパーのポイントカードのように簡単に言うが、貧乏ライターが「じゃあ、入ろうかな」と入れるわけはない。会社社長といっしょにしてはいけない。万が一持てたとしても、高額の年会費を払う気がない。ネット情報では、アメックス・ゴールドカードの審査はそれほど難しくないというが、年会費は29000円+税である。旅行保険料のほうが安い。
 話が横道にそれたので、元に戻す。
 みずほのキャッシュカードにアメックスカードがついているのは魅力だなあと思いつつ、行員の説明を聞いていた。「手続きにはひと月ほどかかりますが、いかがでしょう・・・」と行員は言うが、この機会に、アメックスカードを申請してみようか。
 「ところで、このカードはなんですか?」
 パスポートといっしょに提出したキャッシュカードを手にして、行員が聞いた。
 「以前使っていたカードで、変更になっても捨てずに持っていたので、再発行の資料に使えるかもしれないと思って持ってきたんですが・・・・」
 行員はそのカードを左手に持ち、パソコンで調べている。
 「このカードは、現行のものです。使えるはずですが、試してみましたか?」
 「いえ、・・・、ええ? 使えるカードなんですか?」
 「紛失したとおしゃっているカードは、もしかして、これではないかと・・・」
 あーーーーーーーー、わかった。思い出したぞ!!!
 新座駅のコンビニで現金を引き出した後、キャッシュカードを毎日持ち歩いている必要はないぞと思って、そのカードを貴重品袋に入れて、引き出しにしまい込んだのだ。それを、すっかり忘れていた。キャッシュカードを持った20代から40年以上、日本にいる限りカードは財布に入れていたので、ATM機の前で財布にカードがないと気がついて、呆然自失。動転、狼狽、動揺。思いがけない事態におののいて、理性を失い、慌てふためき、どこかでカードを無くしたに違いないと思い込んでしまったのだ。だから、引き出しの中にあったカードを、「過去の使えないカードだ」と思い込んでいたのだ。
 「過去の使えないカード」だと思っていたキャッシュカードで現金を下ろした。これが秋の旅行資金だ。私はクレジットカードでの支払いやキャッシングというのは嫌いだ。現金のほうが使いやすいという古いタイプの日本人だ。
 
 というわけで、この秋も世界のどこかで過ごすので、このブログはしばらく休みます。夜の時間をもてあそんでいる方は、バックナンバーでもお読みください、秋の旅の話は、冬になったら、このブログに書きましょう。皆さま、お元気で。
 Vamos ,amigos!

1190話 キャッシュカード大事件 前編


 カネを下ろそうと銀行に行った。自宅近くでも下ろせるが、通帳記入もしておきたいと思ったから、電車に乗って遠くの支店に行った。鄙で暮らしているから、ウチの近所に都市銀行の支店はないのだ。
 みずほ銀行に着いて、ATM機の前に立ち、左手に通帳と財布を握り、キャッシュカードを出そうとしたら・・・・・、カードがない! ホントかよ! そんなわけはない。キャッシュカードはずっと財布に入れてあるはずだ。ショルダーバッグのどこかにかるかもしれないとバッグの底をあさると、ATM機が「画面上に物をのせないでください」の表示が出し、よけいに慌てさせる。どんなに探しても、キャッシュカードは見つからない。誰かが財布からキャッシュカードだけ盗むとは考えられないから、自宅のどこかに置き忘れたのか。あるいは前回ATM機を使ったときに置き忘れたのか。盗まれたカードで、現金がすでに引き出されているかもしれないという不安があり、恐る恐る通帳記入をしたら、心当たりのない引き出しはなかったから、まずは安心。
 カネを下ろせないまま、また電車に乗って帰宅した。銀行類のカードが入っている袋にあの銀行のキャッシュカードも入っているが、それは以前使っていた変更前のものだ。ということは、やはり置き忘れか。通帳を調べてみれば、6月15日に引き出している。武蔵野線新座駅構内のコンビニNewDaysで引き出しているから、そこで取り忘れたのか、落としたのか。忘れ物か落とし物として、カードが届いてないかどうか、コンビニに電話してみた。
 「7月分以前の遺失物台帳は駅の方に提出するので、今すぐに調べがつきません。明日の午前中に調査結果をご連絡します」という実にていねいな対応をしてもらった。紛失したのがキャッシュカード単体だからまだいいが、クレジット機能付きだとえらく面倒なことになる。
 翌日午前、前日に私の電話を受けた店員から電話があった。「6月中旬にキャッシュカードが落とし物として届けられていますが、お客さまのカードはどちらの銀行ですか?」
 「みずほです」
 「はい」
 おお、あったか。よかった。これから電車に乗って受け取りに出かけるか。
 「こちらに届いているキャッシュカードもみずほのものですが、ただ、問題がありまして、カードの名義は女性名なんですが、お心当たりはありますか?」
 「いえ、まったく」
 「では、これじゃないですね」
 一瞬のぬか喜びのあと、すぐさま、銀行に行った。再発行の手続きだ。
 私が初めて銀行のキャッシュカードを持ったのは、コック時代だ。当時勤めていた銀座の店が、銀行との付き合いで全従業員がその銀行で口座を開設することになり、給料天引きで財形貯蓄もさせられることになった。だから私の口座は今も「銀座支店」にある。
 厨房の先輩たちはすでにカードを持っていて、暗証番号に関するアドバイスを受けた。
 「誕生日や自宅電話番号はやめろ」という基礎。
 「1111とか5555、1234なんていうのも、やめたほうがいい」
 「オレ、部屋の番号にしてたんだけど、その後何回か引っ越して暗証番号がわからなくなって、ATMでいろんな番号を押しているとカードが戻ってこなくてさ。大変なことになって・・・」
 そういうアドバイスを聞いたので、何の意味もない適当な番号にした。だから、困ったことが何回かあった。アフリカ方面に1年ほど旅をして帰国してすぐ、当面の生活費を引き出そうと銀行に行ったが、暗証番号を思い出せない。「これだったか・・」と入力すると、「暗証番号が違います」の表示がでて、別の番号を入れても、受け付けない。「3度やると危ない」と言われていたので、しかたなく帰宅したのだが、思いついただけの根拠のない番号だから調べようがない。コック時代の手帳に番号が控えてあったのだが、その手帳が見つからない。引き出しの中などを小1時間ほど探し、やっと手帳を見つけた。意味のない暗証番号にすると、こういう不便なことがある。
 私は数字が覚えられないタチだ。今年の4月のことだが、大学の図書館で利用カードの更新書類を書いて提出したら、「電話が変わったんですね」と言われたが、そんなことはないので、その書類をよく見たら、郵便番号を記入していた。記入欄を間違えたのではなく、郵便番号の4桁を電話番号として記入していたのだ。ああ。
 キャッシュカードを再発行したら、暗証番号が変わる。今度は覚えやすい番号にしよう。

1189話 大学講師物語 その18

 異文化体験を想像する


 今年のレポートも異文化体験を想像するというスタイルにした。具体的にはこういうものだ。

 モンゴルの草原で2か月間ホームステイをすることになりました。モンゴル人家族とともにゲルで暮らし、牧畜を手伝い、モンゴル語を学びます。ゲルは、電気・水道なし、スマホ圏外です。まず、モンゴル人の生活をよく調べて頭に入れ、そこで自分が過ごすと、あなたの頭と体はどういう変化を起こすでしょうか。その想像の異文化体験を2000字で書きなさい。

 このレポートテーマには、いくつもの要素が入っている。「モンゴルの生活を書きなさい」だと、学生は資料の引き写しをするしかない。そんなものを読んでもおもしろくない。学生にコピペさせるようなテーマを与えてはいけない。だから私は、モンゴルで生活する自分を想像せよというテーマを与えた。自分に受け入れられる事柄と、なじめない、あるいは拒絶する事柄、そしてどうしても必要な事柄などを考えてもらおうというのが私の出題趣旨だ。
 その場所をモンゴルとしたのは、モスクワだろうがサンパウロだろうが、大都市なら日常生活の生活落差はそれほど多くないと思った。アマゾン奥地やニューギニア山中だと、落差があまりに大きく、レポートがほとんど同じになるだろうと思った。モンゴルの草原だと、基本的に肉とミルクの食生活で、電気水道なし、風呂トイレなしなど日本人には障害が多いが、食い物は充分にある。だから、「異文化のなかの自分」を考えるにはちょうどいいかと想像したのである。
 いままでレポートは1000字程度だったが、今年は2000字にした。1000字だとそれほど想像力(創造力)を発揮しなくても書けそうだが、2000字となると、モンゴルの生活をしっかりと頭に入れ、そこでの自分をじっくりと考えないと書けない。学生にとって、想像で2000字の文章を書くというのはちょっとした負担だろうと思った。その負担を回避する方法があるので、レポートテーマ発表時に、こう釘を刺しておいた。

 モンゴルの説明は必要ありません。長々と説明して行数を稼がないように。

 想像の文章が書けないと、ネットにいくらでもあるモンゴル情報を取り込んで行数を稼ごうという学生が多く出てきそうな予感がして、こういう注意書きを書き添えた。それにもかかわらず、注意を無視するかのごとく、モンゴルの気候だの歴史だのモンゴル語の説明を書き続けたレポートが数多くあった。したがって、そういうレポートはD判定(不可)である。本にもネットにもない話を自分で書き上げるというのは、難易度が増す。だから、こういうレポートにしたのだ。
「なんだ、つまらん」と言いたくなるレポートが3割くらいあった。ひとまとめにすれば、こういう文章がレポートの最後の部分にある。

 「最初のころは、私にとってはつらい異文化体験でしたが、滞在するうちに慣れてきて、モンゴルを去るころには楽しい思い出に変わっているでしょう」

 なんだよ、このとってつけたような終わり方は。つまらん。友人の教授によれば、こういう結論は就活の学習成果なのだという。企業の人間が納得するありきたりの、もっともらしい結論というのが、就職試験の必勝法なのだという。ダークスーツを着た人間に、リクルートスーツを着た学生が発する文章あるいは話は、こういうきれい事がぴったりなのだろう。気が重くなる。こういう結論だからと言って減点することはないが、けっして加点はしない。
 モンゴルでの滞在地を「スマホ圏外」としたのは、日本との関係を一定期間断つとどう反応するのは知りたかったからで、案の定「スマホ依存症」患者からの苦痛の声が寄せられた。それでわかったのは、繋がらないスマホは何の役にも立たないと思っていることだ。「写真が撮れない」とか「音楽が聴けない」、「果ては、時間がわからない」といった苦情が書いてあって、スマホを持たない私を驚かせた。電気がなくてもソーラー式携帯バッテリーなどを持っていけば充電はできる。インターネットにつながらないだけで、音楽を聴くことができるし、写真も撮れる。どこにでもコンセントがある環境にあると、コンセントがないと充電できない、だからスマホはまったく使えないと考えてしまうらしい。
 「スマホが使えない」ことは嘆いても、真正面から孤独感を考えた学生は極めて少ない。その数少ない学生は、いままでにひとり旅をしたことがあったり、留学を経験していたりして、外国での孤独感を実体験していることが文章からわかる。だから、話し相手がいない、周りの会話が理解できないという孤独感は、わざわざ想像しなくても、はっきりと記憶している。言葉が通じないというのを「不便だ」とは理解しても、「孤独だ」という想像がないのは、いままで何度か外国旅行をしていても、日本人と一緒だったからだろう。
 こうした異文化体験を想像するというレポートを、いままで何度かテーマにしたことがあったが、興味深いことに、「なんとか対応できる」という趣旨よりも、「そういう異文化には対応できない」という趣旨のほうが、内容的にも文章力でも優れているのだ。「どんな異文化でも、努力すれば克服できる」とするおりこうさんのレポートは、総じて出来が悪い。ろくに現地事情を調べなくても、肯定的な文章は書けるからだ。
 考えてみれば、本や映画の評価でも、「あー、おもしろかった」と書くなら、ネットの書評や広告を見るだけで書ける。しかし問題点を指摘しようと思えば、ほかの資料を読んだり、じっくり考えないといけない。私のレポートも、それと同じように、架空の滞在記を否定的に書くなら、それ相応の準備と文章力が求められるということだ。
 私の成績判定は、異文化に対してどういう態度をとるかで成績を判定はしないので、「モンゴルなんて行く気がしない」という内容でも、その理由がきちんと書いてあれば評価している。
 これが、講師最後のレポートとなった。
 今回で「大学講師物語」は終了します。

1188話 大学講師物語 その17

 私の旅行史研究 (5)

 石毛直道さんは1958年京大入学、吉村文成さんは2年遅れて1960年に入学し探検部に入った。吉村さんの大学生時代は8年間にわたるので、在学中の1964年に海外旅行が自由化されることになった。すると、京大探検部員も従来の探検・冒険派と、ただ自由に旅をしたいだけという学生の2派に分かれた。自由化以前は、日本人が外国に行くためには、その渡航が日本にとって有益であると認められる必要があった。政府の許可がないと、自由に渡航ができなかったのだ。だから、渡航する大義名分をでっちあげ、企業を回って寄付を集めるというのが、いままでの探検・冒険であり、それはとうぜん団体行動であった。1964年の海外旅行自由化以後、大義名分は必要がなくなった。探検部に入らなくても、旅行費用をなんとかできれば、個人で海外旅行ができるようになった。
 吉村さんは、従来の探検や冒険から距離を置いた最初の部員のひとりだった。自由化前には、「カナダ・エスキモー学術調査」というもっともらしい名目をでっちあげて北アメリカ旅行をして、在学中に『アメリカ大陸たてとよこ』(吉村文成・島津洋二、朝日新聞社、1964)を書いた。北アメリカから帰国してしばらくすると、「外貨規制が解除され、だれでも海外観光旅行ができるようになりました。私は単身で東南アジアに出かけ(意外に安上がりなことを発見して)しばらくの間、インド・ヒッピーとして暮らしました」という学生だった。引用した文章は、あとで触れる『京大探検部』。
 吉村さんより2年後の1962年に京大探検部員になった鳥居正史は、1964年に海外旅行が自由化された喜びをこう書いている。「私にとって、IMF八条国移行(海外旅行自由化のこと。前川注)ということはあまりに衝撃的だった。先生や先輩が組織した探検隊に加わらなくても、自分一人の力で海外に行ける時代になったのだ。怖いもの知らずの私が個人で海外に飛び出すことを決心するのに時間はかからなかった」。そして、1964年5月、神戸からヨーロッパに向かって船出した。探検部員が、北欧で皿洗いして旅行資金を稼ぎヒッチハイクの旅をするようになる。そのいきさつは、『一九六四年春 旅立』(鳥居正史、幻冬舎ルネッサンス、2012)に詳しい。上に引用した文章もこの本から。ヘルシンキにいた1965年、小説家の卵がやって来て、皿洗いで旅行資金を稼いでいる若者に取材したという話がでてくる。小説家はその時の取材をもとに書いた小説でデビューする。五木寛之の『さらばモクスワ愚連隊』である。
 そうしたいきさつは、『京大探検部 1956〜2006』(新樹社、2006)に詳しい。この本は、戦後の若者がいかにして日本を出て行ったかを知る名著だ。日本のバックバッカー研究の必読書だ。普通の読みものとしても、すばらしくおもしろい本だ。この『京大探検部』と若者の旅の話は、2012年にこのブログ448話ですでに書いている。
 海外旅行が自由化された1964年以後、海を渡った若者たちの装備は、留学生や移住者を別にすれば、登山部と同じだった。リュックサック(横長のキスリング)と寝袋やテントだ。貧乏旅行のノウハウは、登山部やワンダーフォーゲル部のものだ。国内を旅する若者は横長のキスリングのせいで「カニ族」と呼ばれ(おもに1970 年代)、北海道に大挙出没した。外国を目指した若者は、キスリングを背負ってシベリア鉄道かフランス郵船に乗った。ただし、カニ族と海外貧乏旅行者とはどうリンクするのか、私にはよくわからない。カニ族のうちどれくらいの若者が外国に出たのか知りたいが、そういう資料や証言を知らない。根拠のない想像なのだが、インド帰りとシンクロするのは北海道ではなく沖縄や奄美諸島だ。奄美→沖縄→東南アジア→インドというルートのほうが、私の想像力を刺激する。
 日本には、バンコクの安宿カオサンに行って旅行者にインタビューする程度の学者はいるが、旅する若者の大潮流を調べてみようという人はどうやら私以外にはいないようだ。それが、針の先のようなマイナーなテーマだとは思わないのだが、残念ながら若き研究者を刺激するテーマではないらしい。