1192話 プラハ 風がハープを奏でるように 第1回

夢の中でも

 旅を終えて帰国しても、夜ごとプラハが夢に出てくる。帰国したばかりだと、まだ旅をしている感覚だったり、夜中に目覚めたときに、自分は今どこにいるんだろうかと考えることはもう何十年も前からある。朝、目が覚めて、「ああ、日本か。ホテルじゃないんだ。旅は終わってしまったのか」と感じることもよくある。しかし、毎晩のように夢で異国を散歩しているという体験は初めてのことだ。日本にいても、夜になると石畳のプラハを散歩している。
 チェコプラハで、大事件に遭遇したわけではない。残念ながら、恋愛映画になるような、一生忘れられない感動的な出会いがあったわけでもない。いつものように、ただ、散歩をしていただけだ。それなのに、プラハが毎夜夢に出てくるのは、昼間もチェコ漬けになっているからかもしれない。旅に出る前にも多少はチェコの本は読んでいるが、そんなものはほとんど意味がないことは体験的によくわかっている。旅行先の歴史も地理もわからないうちにいくら資料を読んでも、頭にまったく入ってこないからだ。だから、帰国してすぐに、すでに集めた資料をまた読みつつ、まだ手に入れていない資料を次々にアマゾンに注文し、その結果日刊アマゾンのごとく毎日本が届き、段ボール箱いっぱいになりつつある本を、あるときは読み飛ばし、あるときは市内地図を手元に置いて精読し、「ああ、そうだったか」と納得し、チェコ語に関する資料を読んで発音を確認し、論文をインターネットで読み、手に入りにくい本は図書館に行って借りてきて読むという生活をしているうちに、ついにプラハが夢に出てくるようになった。
 春先から、今年の秋はどこに行こうかと考えていた。旅行先を選ぶ条件のひとつは、「ひと月散歩をしていても飽きない街」だ。散歩の楽しい街は世界にいくらでもあるが、「ひと月遊べる」という条件を付けると、大阪のほかそう多くはない。世界地図を頭に浮かべて、そういう街を探した。ニューヨークやサンフランシスコにまた行きたいが、滞在費が高くなりすぎる。ロサンゼルス郡のサンタモニカに住む友人が「ウチに来ればいい」と言ってくれたが、ロサンゼルスほど散歩と相性の悪い街はない。「せっかくの好意だけど、サンタモニカはごめんだな」と返事を書いた。
 いままで行ったことのない国にしようと思った。これまであまり多くの国を旅していないので、行ったことのない国などいくらでもあるが、それだけの理由で行ったことがない国に行く気にならない。訪問国を増やすというスタンプラリーのような趣味は、私にはない。今年4月に大阪から帰ると、次の旅行先を考えた。チェコプラハポーランドワルシャワハンガリーブダペストの3都市が頭に浮かんだ。いずれの街にもまだ行ったことがない。この3都市を候補にしたのは、地中海の国々は行ったから、少し北に視線を上げて、「もしかすると、おもしろいかもしれない」という勘だけで選んだ街だ。「建築を見るならプラハかな」という程度の理由で、3候補からプラハを選んだ。通常のツアーなら10日間もあれば3か国くらいは旅するから、この3都市も一気に訪問できるだろうが、旅は効率を求めるものではない。移動ばかりのあわただしい旅はいやだ。「腰を落ち着けて、プラハに最低ひと月」が基本だ。そのくらいの時間をかけないと、初めての街の魅力はわからない。ひと月あれば充分というわけではもちろんないが、まあ、とりあえず、ひと月。
 毎日プラハを散歩した。そして、プラハは実におもしろかった。気に入った。もし、チェコ政府観光庁のポスターにキャッチコピーを入れるなら、「きっと、あなたもプラハが好きになる」がいいかなあなどと思いながら散歩をしていた。居心地がいいのである。
 プラハの魅力を伝えるにはどう表現すればいいか考えているときに、だいぶ前に買った資料を再読して、わかった。
 『地球・街角ガイド タビト 6 プラハ』(同朋舎出版、1995)のプロローグに、千野栄一は「プラハは歩いて!」と題してこう書いている。以下、最初の節を引用する。

 永らくフランスに亡命していたチェコの作家ヤン・チェプがCOR PATRIAE(祖国の心)と題する一文の冒頭で、「愛を告白する以上に、どのようにしてプラハについて語れるであろうか? その名を口にするだけで、風がハープを奏でるように心がときめくのをどうして妨げよう」と言っているが、プラハを一度でも訪れた人は同じ思いを抱くに違いない。

 プラハの魅力は、私にとって具体的に「これ!」というものはない。観光名所や雑貨の買い物でもない。ましてや、料理ではない。いつまで散歩をしても、けっして飽きない街。ひと月散歩して、「もっと居たい」と思いつつ帰国するのが、理想的な街だ。私にとって、それが魅力的な街で、それがプラハだった。確実に、プラハの風が私の心に吹き寄せた。
 幸せにも、私はプラハと出会った。そして、これから、そのプラハの話を書き始める。長くなると次の旅に出られなくなるから、簡単に書こうとは思っているのだが・・・。
 さあ、書くか。


 到着した翌朝に見た風景。国立博物館は改装工事中で入れなかった。