1244話 プラハ 風がハープを奏でるように 53回

 乗り物の話 その7 料金 後編

 

 チェコの資料を数多く読み、ネット情報に目を通していると、チェコの変化が気になってくる。共産党政権時代から自由な時代になっていく過程で、何がどう変わったのか知りたいことはいくらであり、地下鉄駅の新旧名称を調べたのもその一環だった。

 トラムなど乗り物の料金を調べていくと、物価の変化がよくわかることに気がついたのだが、ややこしくて頭が痛くなる状況もわかってきた。それがどんなものか、以下の情報をご覧ください。Kは通貨単位コルナ。

■『地球の歩き方 チェコ/ポーランド ‘91~’92版』(1991年4月)には、こうある。

バス、地下鉄、トラム共通利用券が、1回1K。24時間乗り放題券は8K。

ちなみに、1991年1月に強制両替制度が廃止され、実勢レートでの両替が可能になった。1991年1月現在、1Kが約5円だから、2019年の現在と変わらない。外国人にとっては、とんでもなく安い。

 

プラハの滞在記『プラハの春は鯉の味』(北川幸子、日本貿易振興会、1997)

1996年春に公共交通の料金システムに変更があった。それまでの1回乗車ごとに6Kのキップを買うというシステムから、1回券で15分間有効、地下鉄はこのキップで4駅まで乗車可能となる。違法乗車の罰金は200K。著者が、道路工事でバスが渋滞に巻き込まれて、乗車時間が15分を過ぎたという理由で罰金を支払わされたという不満を書いている。96年ごろはまだ、共産党時代のお役所仕事の時代だったとよくわかる。

 

■『ワールドガイド チェコハンガリー 』(JTB、2001)

さらにややこしくなった。1回券8K。地下鉄は30分有効、4駅まで乗車可能。バスとトラムは乗り換え不可。乗り換え可能キップは12K。60分間有効。1日券70K、3日券200K。

 

■『地球の歩き方 チェコ ポーランド スロヴァキア ‘07~’08』(2007)

14Kのキップは、地下鉄は30分間有効、乗り換え可能だが、5駅先までの乗車。バスとトラムは20分間有効。乗り換え不可。ケーブルカー使用不可。

20Kのキップは、地下鉄、バス、トラムに適応し、75分間有効。夜間と土・日・祝日は90分間有効。1日券80K、3日券220K。

 

■『地球の歩き方 チェコ ポーランド スロヴァキア ‘11~’12』 (2011)

18K券。地下鉄は30分間有効、5駅先まで乗車可能。バスとトラムは20分間有効。乗り換え不可。夜間及びケーブルカーは使用不可。

26K券。地下鉄、バス、トラム、ケーブルカーに75分間有効。乗り換え自由。

 

■『地球の歩き方 チェコ ポーランド スロヴァキア 2018~19』(2018)

地球の歩き方』の表紙の年号表記がよく変わるのに気がついたが、それはさておき、最新事情を復習する。

 地下鉄、バス、トラム、ケーブルカーすべてに有効な乗車券は、30分間有効券が24K、90分間有効券が32K。いずれも乗り換え可能。1991年の料金1Kが2018年には32Kになっている。

 シンプルになったのはいいが、乗車時間制限をしている理由がわからない。1979年に香港に地下鉄が開通した時、乗車時間に制限があった。その理由は、多くの住民が涼みや昼寝にやって来ると想像されたからだ。プラハの地下鉄なら「避寒」の理由があるかもしれないが、ほかの寒冷地ではこういう制限があるとは思えない。プラハの地下鉄はソビエトの強い影響力のもとで建設されたが、モスクワの地下鉄にはこういう乗車時間制限はなさそうだ。制限の理由をご存知の方、ご教授ください。

 それはそうと、僭越ながら、プラハの公共交通機関の改革案を書いておくと、次のようになる。

・乗車時間制限撤廃。

・バスは均一料金にして、ワンマン化。

・地下鉄は延長工事が進み路線が長くなっているから料金均一制はやめて、距離に応じて変わる料金システムにして、キップを使う自動改札にしたほうがいい。札が使える自動販売機の導入か、関東のスイカのような先払い方式導入が便利だが、すべての駅に改札ゲートを設置しないといけないので、かなりの資金が必要だ。

f:id:maekawa_kenichi:20190226093600j:plain

 1日券を買って、こういう街並みのなかを走るトラムで、ぼーっと車窓から外を眺めている時間も楽しい。

f:id:maekawa_kenichi:20190226093653j:plain

 1950年代のファッション雑誌のイラスト風だが、描いたのはずっと後の時代だろう。

f:id:maekawa_kenichi:20190226093812j:plain

 レールを削る工事車。このほか、新幹線のドクターイエロー(検査車)のような特殊車両も走っているが、突然現れて走り去るので、撮影するタイミングを逸した。
 

f:id:maekawa_kenichi:20190226093904j:plain

  かつては、プラハでもトロリーバスが走っていたようだが、多分、今は廃止されたと思う。これは、チェコ南部のチェスケー・ブディエヨビィツェで見かけたトロリーバス。車体が新しいから、トラムからバスに代わってまだそれほど時間がたっていないのだろう。

 

1243話 プラハ 風がハープを奏でるように 52回

 乗り物の話 その6 料金 前編

 

 プラハのバス、トラム、地下鉄は共通のキップを使う均一料金制だ。キップは地下鉄駅やトラム駅などに設置されている自動販売機か、街の売店などで買っておく。バスやトラムの車内ではキップを買えない。あらかじめ買ってあるキップを駅やバスやトラムの車内にある改札機にキップを差し込み、使用日と時刻を自分で刻印する。検札機を素通りする人が多いが、それだけ無賃乗車が多いということではなく、学生や勤め人など定期券所有者が多いからでもある。旅行者用でも1日券や3日券などがあり、いちいち検札機を使う必要がない。

f:id:maekawa_kenichi:20190224094840j:plain

 地下鉄の自動券売機。ここで買ったキップは、バスやトラムでも使える。あらかじめまとめて買っておくのが、散歩のコツだ。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190224094912j:plain

 コインのみ使用可能だから、いつも多めの小銭を持ってないと困る。クレジットカードが使える機種もあり、一度試したら、カードが戻ってこないトラブルがあって、数分困惑したことがあった。以後カードは使わない。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190224095001j:plain

写真左が地下鉄ホームからの出口、右側が入口。写真中央と、右に黄色い検札機が見える。右側の検札機で、オレンジ色のTシャツを着たおばちゃんが、キップを検札機に差し込み、自分で検札(使用日時を刻印)しているところ。ヨーロッパでは長距離区間でも、こういう方式が多いと思う。

 

 これから料金の話をするので、チェコの通貨を確認しておく。通貨単位はコルナで以下Kと略す。1Kは約5円。

 時刻が需要なのは、使用時間で料金が違うからだ。30分有効券が24K、90分有効券は32K、子供料金は半額。1日券は110K、3日券は310K。もっと長期の定期券のようなものもあり、買おうかと思い料金を調べたら安いと思い、駅の窓口に行った。詳しい事情を調べるとほかの料金も加算されて、全体的には割安感はないのでやめた。

 使用時間が決められているが、その時間内なら1枚のキップでバス→地下鉄→トラムと乗り継いでもいい。日本のような改札口はないから、物理的には毎日ただ乗りができるのだが、もちろん検札はある。スペインやモロッコではたびたび検札に出会ったが、プラハでは、ひと月ほどいて、ほぼ毎日乗り物に乗ったが、検札はたった1度見ただけで、私自身は検札されていない。

 検札を見たのは、地下鉄ムステック駅だったと思う。ホームに行く下りエスカレーターを降りたところ、ホームのすぐ近くだった。長い下りエスカレーターの降り口でキップを調べているから逃れようがない。私は財布からキップを取り出し、右手に持って準備をした。制服の男が4人いるが、3人は立ち話をしている。検札をしているのはひとりだけだ。私には近づくことさえしない。無視、あるいはフリーパスだ。私がただ乗りなど絶対にしない、見るからに善良な旅行者に見えたからか、あるいはチェコ語も英語もできそうにない外国人だからかかわると面倒だと思ったからかわからないが、私は無視された。結果的にはこれが唯一の検札目撃体験だが、稀有な体験だろうと思い、検札者をやり過ごしたら振り返って、検札ぶりを観察した。

 相変わらず、働いているのはひとりだけだ。犯罪者発見率、つまり検札したら違反していた者を発見する率は高い。キップを持っていない者はもちろん、キップに刻印していない者も同罪だ。罰金は800K。30分券の33回分だ。ということは、毎日タダで乗っている人が、月に1度捕まるくらいなら、ただ乗りの方が安くなる確率だ。あくまで確率だから、物事は計算通りにはいかないのだが。

 捕まったからといって、あらがう者はいない。確信犯だ。財布からクレジットカードを出し、支払い、それでおしまい。検札者も違反者も事務的で、1分で罰金の支払いは終える。この罰金は、条件によって減額や増額もあるようだ。こういう悠長なことができるのは、旅客が少ないからで、日本の大都市の交通機関では無理だ。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190224095057j:plain

 自動検札ならぬ、自分検札をして、ホームに。この駅も、朝夕の通勤時には割合混む。「混む」といっても、もちろん東京や大阪の「混む」とはまったくレベルが違う。 

 

1242話 プラハ 風がハープを奏でるように 51回

 乗り物の話 その5 地下鉄

 

 プラハの地下鉄はA、B、Cの3路線あるが、路線は単純なので、日本で地下鉄に乗っている人なら、難なく乗りこなせる。

 プラハ最初の地下鉄は、1974年営業開始のC線で、A線が78年、B線が85年だ。外国人旅行者にとって最大の問題は、まだ空港へ乗り入れている路線がないことだ。

 プラハの地下鉄を調べたついでに、近隣諸国の地下鉄開通年を調べてみるとこうなる。

 ブタペスト(ハンガリー)・・・・1896年

 ブカレストルーマニア)・・・・1979年

 ワルシャワポーランド)・・・・1995年

 ソフィア(ブルガリア)・・・・・1998年

 ブタペストの地下鉄は、1863年開業のロンドンに次いで世界で2番目に古い。開業当時のロンドンの地下鉄は蒸気機関車が走っていたが、ブタペストは世界で初めて電車が地下を走った。

 プラハの地下鉄は実用的には何の問題もなく利用できるが、とりたてて強調するべきところもなく、まあ、可もなく不可もなくというところか。ひとつだけ、「あれっ?」と感じたのは、駅によってエスカレーターの速度がちがうことだ。根拠のない私の想像だが、短いエスカレーターは日本のものと変わらない速度だが、長い(深い)エスカレーターは恐ろしく速い。

 プラハの地下鉄でもっとも興味をもったのは、ソビエトの強い影響から解き放たれた1989年のビロード革命以後、共産党政権を感じさせる「いかにもな駅名」が変更されたことだ。それはチェコスロバキア現代史の資料だから、名称が変更された旧駅名とその意味を知りたくなった。チェコ語もロシア語もわからないから苦労したが、次の情報をもとに調べてみた。2駅は意味が理解できないので省略した。日本語訳がないのは、地名か調べがつかなかった駅名だ。太字が旧駅名。

http://www.praguemorning.cz/do-you-know-the-original-names-of-prague-metro-stations-n3RGRi3QGD

Leninova・・・レーニン。現在は地名からDejvicka。

Sokolovska・・・チェコスロバキア軍も参戦したウクライナの対ドイツ戦の戦場名が1948年にプラハの地名になり(もちろん、ソビエトの指導だろう)、地下鉄駅名となった。現駅名のFlorencは、イタリアのフィレンツェのこと。

Moskevska・・・モスクワ。現駅名のAndel(英語ならAngelというのは皮肉か?)

Svermova・・・Jan Svarma(ヤン・シュベルマ1901~1944)は共産党の政治家。現駅名Jinoniceは地名。                  

Dukeiska・・・1944年、ソビエト軍の援助を受けてドイツと戦った戦場。ポーランドスロバキアの国境にあるDukia峠。現駅名Nove Butoviceha地名。

Fucikova・・・Julius Fucik(ジュリウス・フーチック 1903~43)。ナチスと戦ったジャーナリスト。現駅名Nadrazi Holesoviceは鉄道駅名

Gottwaldova・・・現駅名のvysehredと同様に地名か?

Miadeznicka・・・チェコ語mladez(若者)が変化したもの。現駅名Pankracは地名。

Primatora Vacka・・・1940~50年代のプラハ市長Vacla Vacek(1877~1960)にちなむ。現駅名Roztylyは地名。

Budovatelu・・・建設者を意味するbudovatelから。現駅名Chodovは地名。

Druzby・・・友情を意味するロシア語druzbaから。現駅名Opatovは近くの道路名からとったか?

Kosmonautu・・・宇宙飛行士。現駅名Hajeは地名。

f:id:maekawa_kenichi:20190222094504j:plain

 旧称「宇宙飛行士」駅。現在はHaje駅。プラハ最初の地下鉄であるC線の南の終点。駅周辺はなんの変化もない郊外住宅のようだが、詳しくは調べていない。そこがどういう場所かグーグルマップを見ればすぐわかるのは、幸せなのか不幸せなのか。
 

 

 

1241話 プラハ 風がハープを奏でるように 50回

 乗り物の話 その4 プラハを走るトラム

 

 帰国して、「もっとプラハを見たかった」と残念に思うことは多い。心残りで帰国する旅行者とそう思わせる街は、それはそれで幸せな組み合わせなのだが、こうしてプラハに関することをいろいろ調べていると、あらためて「もっと見たかったなあ」とつくづく思う。トラムと地下鉄巡りは少しはやったが、まだまだ足りない。トラム全線完全乗車や地下鉄駅見物などをやりたかった。ある程度そういう見学散歩をやるのには10日ほど必要なのだが、プラハでの滞在時間を、トラムと地下鉄の調査に費やすという気にはなれなかった。私は旅をしたいのであって、調査や取材はしたくなかった。

 というわけで、今回は、散歩をしているときに見かけたトラムが走るプラハの風景を紹介する。撮鉄(とりてつ)ならぬ撮トラムというマニアなら、どこに行けば「絵になる風景」が撮れるのか調べるのだろうが、私の場合は、散歩の途中の、「たまたまの出会い」だ。撮影地はすべて記憶しているが、説明は省略する。林の中を走る写真も、撮影地はいずれも、ガイドブックの地図の「プラハ中心部」に入る地区だ。

f:id:maekawa_kenichi:20190220092459j:plain

 

f:id:maekawa_kenichi:20190220092554j:plain

 

f:id:maekawa_kenichi:20190220092640j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220092730j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220092829j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220092911j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093009j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093150j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093430j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093536j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093633j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093746j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093844j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220093937j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190220094103j:plain















 

 

1240話 プラハ 風がハープを奏でるように 49回

 乗り物の話 その3 交通博物館

 

 チェコのガイドブックを読んでいて、もっとも行きたいと思ったのは交通博物館だった。私は鉄道マニアでも自動車マニアでもなく、「ちょっと乗り物が好き」という程度だから、三輪の自転車と自動車以外まともに調べたことはないし、専門雑誌を定期購読しているなどというマニアではまったくないのだが、古い乗り物を眺めているのは好きだ。

 プラハ交通博物館はトラムの駅から歩いてすぐだから交通の便はいいのだが、いつでも入場可能というわけではない。開館は土・日・祝日のみで、しかも11月から3月までの冬季は休館するので、入館できるのは年間60日くらいだろうか。入場料50コルナは安い。

 1993年のオープンで、全くの想像だが、プラハ交通局の退職者たちが運営に当たっているだろうと想像した。乗り物が大好きな人たちが、ていねいに保存管理をしていることがよくわかる。昔の車庫を利用した博物館なので、手狭。窮屈な感じはする。トラムもバスも、できるだけ多く展示したいという希望がこういうことになったのだろうが、それが悪いわけではない。”Brief  Guide to Prague Public Transport Museum”という16ページの..英語の小冊子も用意してある。

 この冊子から、プラハの公共交通機関黎明期の部分をちょっと紹介する。

 1875年9月23日、プラハに馬が車両を引く鉄道馬車が姿を見せた。間もなくして、路面電車が登場する。1891年のことだ。全線が電化するのは1905年だった。

 というわけで、この博物館には鉄道馬車や初期の電車も展示してあるものの、「おうおう、昔の電車だ」とあまり感動しないのは、うれしいことに古い車両も現役で運行しているからだ。休日には飛び切り古い車両を特別運賃で運行しているが、それほど古くはなければ日常的によく見かける。具体的に言えば、第2次大戦以前や、ひとつ目ライトのタトラT1(1952~58年製造)やT2(1955~62年製造)を路上で見た記憶はないが、1960年から89年まで製造したふたつ目ライトのタトラT3なら、よく見る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%BC

 私はトラムが好きだが、トラムが走っている街も好きだ。今もトラムが走っているということは、それほどひどい渋滞はないということだし、それほど広い街でもないから、トラムを降りて散歩するのにもちょうどいい広さだ。その例外だったのは、このブログにも書いたミラノだった。「ちょっとそこまで・・」という気分で夕暮れ時に乗ったトラムだったが、ひたすら北へ1時間近く走っても終点に着かず、途中で下車して引き返したことがあった。プラハのトラムも、路線によっては始発から終点までかなりの距離を走るから、トラム遊びは昼間がいい。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218094443j:plain

  まさか平日休館とは思わないから、初めて行った日は入れず。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218094619j:plain

 休日に行ったら、開いていた。"MUZEUM"の文字が見えた。平日休館は、ボランティアの運営だからだろうかと想像した。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218094712j:plain

 乗用車もバスも、丸い車体と丸いライトの時代が愛らしく、美しいと思う。博物館前の線路は道路に通じているから、休日には昔の車両が博物館を出て、街を走ることもある。シュコダ706RTO(1956~72)。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218094750j:plain

 鉄道馬車の時代があった。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218094825j:plain

 木製車両がいいなあ。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218094856j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190218094942j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190218095025j:plain

 これは、たぶん1955年から62年まで製造されたタトラT2だろう。こういう「ひとつ目」の車両はこれで終わり、1960年から1989年まで製造された「ふたつ目」のT3型に代わる。T3型は、まだまだ現役で走っている。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218095107j:plain

 タトラ社のトロリーバスT400は、1948年から55年の製造で、プラハでは1970年代初めまで走っていたらしい。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190218095155j:plain

 なんだろうな、この車と思ったので、受付けのおばちゃんに聞き、冊子の展示品番号で教えてくれた。屋根に取り付けた台が上下する高所作業車だとわかった。

f:id:maekawa_kenichi:20190218095237j:plain

 1947年から58年まで生産されたシュコダ706RO。SUCHDOLはプラハの地名。この次のタイプが、すでに紹介した706RTO。

 

 交通博物館の詳しい探訪記がある。もっと写真を見たい、深く知りたいという人は次の記事をどうぞ。

https://4travel.jp/travelogue/11402299

 

 

1239話 プラハ 風がハープを奏でるように 48回

 乗り物の話 その2 プラハ本駅 Praha hlavní nádraží

 

 チェコ語でnadrazi(ナードラジー)は「駅」で、hlavni(フラブニー)は英語ならmain、major、centralなどという意味だ。「プラハ本駅」と訳している資料が多いのだが、どうもしっくりこない。千葉中央、千里中央(大阪)、鹿児島中央などの例にならい、私はプラハ中央駅としたいのだが、問題がある。その話はあとでする。

 本駅か中央駅かなどといったことを考えていると、意外なことがわかった。中央駅関連の資料を読んでいたら、チェコ語の資料に、この駅のドイツ語の名称もあった。前回も書いたように、チェコは過去に「ドイツ語時代」があり、ブルタバ川を「モルダウ」とドイツ語で呼んでいた時代があったのだが、駅名も同様だった。だから、この駅をドイツ語で” Prag Hauptbahnhof“と呼んでいた。中央駅に関する情報をウィキペディアで読んでいたら、こんな記述があった。例によって、ウィキペディアの情報だから信ぴょう性に疑問はあるが、いちおう紹介しておく。

 中央駅(ちゅうおうえき)は、ドイツ語Hauptbahnhof(ハウプトバーンホーフ)の訳語で、都市交通の中心となる旅客駅のことである。ドイツ語圏やその周辺では、都市の中央駅はベルリン中央駅のように「都市名+中央駅」という駅名がつけられる。

 

 チェコは、かつて「ドイツ語圏」だった。だから、この駅はドイツ語で“ Prag Hauptbahnhof”、つまりプラハ中央駅だったのだ。そして、日本の「中央駅」という呼称もまたドイツ語からの翻訳語だったというのがウィキペディアの解説だ。

 さて、プラハの、この駅の話を始めるか。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101122j:plain

 線路は高架ではなく地面にあるから、ホームから地下通路に降りて駅舎に入る。駅舎は丘にあるので、地下通路を進むと、そのまま地上に出る。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101215j:plain

 プラハチェコ語でPrahaなのに、外国はなぜかPrag(ドイツ語)やPrague(英語)と別の名前で呼ぶ。

 このプラハ本駅は美しい駅ではあるが、使う出口によっては醜悪な駅でもあるという話は後回しにして、まずは駅名の話をする。この駅も、マサリク駅同様幾度か名前を変えている。

 1871年に、ウィーンとプラハを結ぶ路線の駅ができた。オーストリア皇帝にちなんで命名されたフランツ・ヨーゼフ皇帝駅が、この駅の最初の名前である。今日のアールヌーボの駅舎は20世紀初めから工事を始め、1910年ごろまでには工事を終了したらしい。

 オーストリアー・ハンガリー二重帝国の支配下にあったこの地は、1918年にチェコスロバキアとして独立した。独立の陰にはアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの働きがあったことに感謝して、この駅をウィルソン駅と改称した。1919年から1940年までの、この駅の名称だ。

 ナチスドイツに支配された1940年以降、「プラハ本駅」と改称されたものの、第二次大戦終了に応じて、ふたたび「ウィルソン駅」となった。しかしソビエトの支配を強く受けるようになり、1953年以降、ふたたび「プラハ本駅」となり、現在に至る。

 「プラハ中央駅」という名称が問題ありと先に書いたのは、マサリク駅も1953年から1990年まで日本語にすれば「プラハ中央駅Praha střed」だったからだ。今ここで取り上げているのは”Praha hlavní nádraží”という駅だから、チェコ語では違う名称なのだが、日本語に訳せばどちらも「プラハ中央駅」となってしまう。だから、この両駅を区別するために、ガイドブックなのでは、中央駅ではなく本駅という翻訳語にしたのだろう。

 ところで、「おいおい、なんてことを書くんだ」と言いたくなる記述を見つけた。チェコの資料を読むために、過去の『地球の歩き方』を買い集めた。初めて書名に「チェコ」が入るのは、『チェコ/ポーランド 91/92』(1991年)なのだが、発売当時はまだ「チェコ」という国はなく、チェコスロバキアが国名だから、問題がある書名だ。

 それはさておき、1991年に発売されたこのガイドブックのプラハの地図を見ていたら、「ウィルソン駅(旧プラハ本駅)」とあり、本文では「プラハ・ウィルソン駅」となっている。「いったい、いつの資料を使ったんだい!」と首をかしげた。ウィルソン駅という名称は、ナチス・ドイツソビエトによって葬られたはずで、そんな幽霊のような駅名が1991年発売のガイドブックに登場するのはおかしい。どうしてこういう誤記になったのだろう。ちょっと気になることがあって、引き続き交通関連の資料を読んでいると、謎が解けた。やはり調べてみるものだ。1980年末のビロード革命以後に混乱があり、ソビエトに支配される前の「ウィルソン駅」に戻そうとする人たちと、そのまま「プラハ本駅」にしておこうという人たちがいて、「ウィルソン駅」派は書類などでこの名を使ったのだが、定着しなかった。そんないきさつがあって、現在の「プラハ本駅」に落ち着いたという。

http://prahamhd.vhd.cz/Draha/hlavak.htm

 もう1点、説明しておかないといけないことがある。「このプラハ中央駅は美しい駅ではあるが、使う出口によっては醜悪な駅でもある」と先に書いた。醜悪というのはこういうことだ。

 鉄道でプラハに着くと、プラットホームから1階通路に降りて、出口に進む。プラハ本駅から乗る場合は、その逆となる。出入口はただのガラス戸だ。駅は丘にあるので、丘の下にも駅舎を作り、そちらを主要な出入り口にした。この駅前広場はホームレスのたまり場だから、鉄道でプラハに到着した人の第一印象は、あまりよくないだろう。写真ストックを調べると、そちら側の出入り口の撮影はまったくしていないのがわかる。

 プラハ本駅の見どころは、アールヌーボの駅舎だ。このドームを見るだけにわざわざ行く価値はあるのだが、プラットホームと出入口を結ぶ通路は、このドームの下をくぐる。だから、気をつけないと見逃すのだ。悪いことに、この美しいドームを出ると、見えるのは高架道路と新駅舎の屋上だ。交通量の多い高架道路だから情緒がない。空港へのバスはここから出る。この出入り口で今でも使えるが、利用者は極めて少ない。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101329j:plain

 駅の新館部分に行くと、ここにも「駅ピアノ」があった。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101413j:plain

  駅舎旧館部分。ガラス戸の向こうはカフェだから、ここにコーヒーを飲みに来てもいい。右手が高架道路への出口。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101451j:plain

 写真中央の下の暗い部分が、ホームから新館にいたる地下通路。だから、通路から見上げないと、頭の上にこういう見事な駅舎があることに気がつかない。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101531j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190216101606j:plain

 天井を見上げた。

f:id:maekawa_kenichi:20190216101646j:plain

f:id:maekawa_kenichi:20190216101719j:plain

 

f:id:maekawa_kenichi:20190216101750j:plain




 

 

1238話 プラハ 風がハープを奏でるように 47回

 乗り物の話 その1 マサリク駅 Praha Masarykovo nádraží 

 

 日本の大きな鉄道駅のJR線は、例えば東と西、南と北を結んでいる構造のものが多いが、ヨーロッパだと、歴史的に見れば駅は街のややはずれにあって、駅に入ってきた列車が逆向きで出発するスタイルが多い。こういう駅を鉄道用語で端頭駅(たんとうえき)という。石積みの中層建造物が立ち並ぶ街ができた後に鉄道の時代になったから、街なかを鉄道が走るスペースがない。だから、その街にやってきた鉄道は、そのまま線路を逆方向に進んで街を出るしかない。プラハの駅もこのスタイルだから、進行方向別に4つの駅があるのだ。

 チョコスロバキアの鉄道は、馬車鉄道や貨物専用鉄道などの時代を経て、旅客を運ぶ蒸気機関車時代に入る。現在、プラハには始発となる駅が4か所ある。市の北にあるプラハ・ホレショビツェ駅はワルシャワやブタペストなど旧東欧諸国を結ぶ鉄道の発着駅である。その南に、あとで詳しく説明するマサリク駅とプラハ中央駅があり、チェコの西部方面への列車が出るプラハ・スミーホフ駅がある。

 まずは、マサリク駅から調べてみるか。『世界旅行案内』(日本交通公社)の1977年版でプラハの地図を見ると、マサリク駅がある場所に「中央駅」と書いてある。これはどういうことだと調べ始めて、駅名の変遷がチェコ現代史だとわかった。

 1845年に、プラハ最初の旅客駅としてこの駅ができた。当時はまだオーストリアハンガリー二重帝国に支配される時代だったから、駅名はドイツ語でプラハを意味する”Prag”だった。つまり、たんに「プラハ駅」だったのだ。以後、ドイツ語名の時代がしばらく続く。1862年から1919年までドイツ語で“Prag Staatsbahnhof”(翻訳すれば「プラハ国立駅」)という駅だった。

 1918年に晴れてチェコスロバキアという独立国になったので、初代大統領トマーシュ・マサリク(1850~1937)の名にちなみ、「プラハ・マサリク駅」となるも、ナチス・ドイツの支配を受けた1940年から45年までは、駅のすぐ前の道路の名をとって「ヒベルンスカー駅」という名になった。ドイツは英雄の名を消したかったのだ。

 1945年に戦争が終わり、ドイツが去り、駅の名はふたたび「プラハ・マサリク駅」となったが、おそらくはソビエトの力が加わったのだろうが、ふたたび初代大統領の名を消されて、1953年から90年まで「プラハ・中央駅Praha střed」だった。そして、ビロード革命後の1990年から、三度「プラハ・マサリク駅」となった。

 私が好きな鋳鉄とガラスの建造部分は1862年に作られたというが、その後たびたび手が加えられている。

 この駅を初めて知ったのは、チェコに行く直前、NHKの「駅ピアノ」というミニ番組だった。駅に、誰でも自由に演奏できるピアノが置いてあり、その演奏にインタビューを加えた番組で、駅と同様にこのシリーズの「空港ピアノ」も放送された。9月に初めて見た後、その後何度も再放送され、私が知っている限りでもごく短い期間に5回以上は再放送されている。放送後すぐに現実のマサリク駅に行ってみると、構内のあの場所にピアノはない。通路だからじゃまになるよなあと思っていたら、奥の方でピアノの音が聞こえた。人目に触れにくい場所に、ピアノがあった。

f:id:maekawa_kenichi:20190214112319j:plain

 この駅を初めて見たとき、マドリッドのサンミゲル市場を思い出した。私にとって、プラハの愛すべき建造物のひとつだ。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112446j:plain

 よく見ると、ふたつの建物の間に屋根をつけて、ホールを作ったことがわかる。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112359j:plain

 駅ピアノは、ここにはない

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112547j:plain

 名誉あるプラハ最初の駅の食堂はケバブ屋だというのが、チェコの食文化事情を表している。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112713j:plain

 夜も、ちょっと立ち寄りたくなる駅だが・・・

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112806j:plain

 場末の駅の風情があって、ちょっと物悲しい。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112909j:plain

 宿への帰路、よくこの通りを歩いた。そして、駅の前で立ち止まり、バッグからカメラを取り出した。

 

f:id:maekawa_kenichi:20190214112958j:plain

 これが、私のプラハだ。