1296話 スケッチ バルト三国+ポーランド 15回

 ラトビアの元銀行員と歌手 その1

 

 リーガの地図を眺めていたら、ダウガバ川の西岸、国立図書館のすぐそばに鉄道博物館があることがわかった。1日をたっぷり使いたいから、朝7時に近所のコンビニでコーヒーを飲み、そのまま散歩することにした。リーガはダウガバ川の東岸にできた街で、「旧市街」は近世の街、その隣の「新市街」と呼んでいる地域は近代の街区、ここ100年から150年前あたりにできた街だ。一方、西岸の方は現代の街で、林と新興住宅地やオフィスビルがある。

 国立図書館は目立つ外観だから、その場所はすでに知っている。ダウガバ川にかかるアクメンス橋を歩いて渡りたい、国立図書館を近くで見たいという希望が、鉄道博物館に行くという計画で、すべて叶えられることになった。トロリーバスも走っているアクメンス橋を歩いて渡る者などいるのかと思った。私のように歩いている人もいるが、ジョギングする人と暴走自転車も多いので、注意をしつつ川面を吹き抜ける寒風に耐えて歩いた。6月初めはかなり寒かったのだ。

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 ダウガバ川東岸から西岸を望む。鉄橋の鉄道橋の向こうに見えるのが国立図書館。歩道のあるアクメンス橋はその右に小さく見える。

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 望遠で国立図書館を撮影。近くまで来たらきっちり撮影しようと思っていたのだが、寒いし好きなデザインでもないので、「まあ、いいや」と素通りした。

 

 たどり着いた鉄道博物館の扉は締まっていた。9時ちょっとすぎという時刻は早すぎるのか、それとも今日は休館なのか、あるいは私が行きたくなる博物館ではしばしばあることなのだが、すでに閉館になっているのだろうか。入口に開館案内が書いてあれば、開館日や開館時間がわかるのだが、そういう情報は一切書いてない。月曜は休館の可能性が高いので、前日の日曜日に来たのだが、さて、どうなんだ。

 近所の人にたずねたいのだが、日曜日の朝だからか、人が歩いていない。さて、困った。仕方がないから、このあたりを散歩して10時ごろにまた来るかと歩き出すと、若い男女に出会った。レジ袋を提げているから近所の人だ。情報源が歩いてきたのだから、もちろん話しかけた。

 「あそこの鉄道博物館は、今日は休館なのか、それともしばらくすれば開くのか、わかります?」

 男はスマホを見て時刻を確認し、「多分、10時か11時には開くと思うけど・・・」

 「1時間か2時間、このあたりで時間をつぶさないといけないわけか。近所におもしろそうな場所はありますか?」

 「そこの公園はどうですか? 美しい公園ですよ」と女が答えた。

 「公園か、公園で2時間過ごす趣味はないなあ・・・。困った」

 私は広い道路の向こうに広がる公園を眺めながら、「さあて・・」と考えた。

 「そうだ! 」と彼女。「これから犬の散歩に公園に行くの。時間をつぶすなら、いっしょに散歩しません。ね、そうしましょ。ちょっと待ってて」と言って、彼女はアパートに入って行った。

 アパート前に立っているふたりの男は、ちょっと苦笑いをした。

 「サッカーは好きですか?」

 20代後半に見える男が当然言った。何を言いたいのかわからないが、「いや、興味がないんだ」と返事をした。

 「昨日の夜、サッカーの試合があったんですよ。ラトビアのチームがでる試合」

 「二人で競技場へ見に行ったんだ」

 「いや、試合はスペインで行われたからテレビで見たんだけど、そのスポーツバーで彼女と知り合い、今まで飲んでいて、まだ飲み足りないから、『もうちょっと飲もう』ということで、ビールを買ってきたというわけで・・・」」とレジ袋に入ったビンビールを示した。

 そんな話をしているうちに、彼女はチワワのような小型犬を連れてアパートから出てきた。

 「あたし、エルザ。歌手よ」

 握手をして、私も自己紹介した。男は黙っている。西洋の礼儀を無視したこういう態度は嫌いじゃない。私も、初めて会った人にすぐさま自分から自己紹介して、あたりさわりのない話を和やかに始めるようなマナーは心得ていない。広大な公園を歩きながらの雑談で、彼は元銀行員だとわかった。

 「銀行の仕事はもういやでいやで、つらいから3年で辞めたんだ。今月、辞めたばかりさ。3年間の欲求不満が爆発して、有益なことは何もしないと決めたんだ。友達と部屋を借りて、生活費を安くして、8月末まで、リーガでひたすらダラダラと過ごすよ。そのために、カネをためたんだ。職探しは9月に入ってから」

 「この機会に外国に行くとか・・・」

 「ヨーロッパのほとんどの国にはすでに行ったから、今年はリーガで無為に過ごすと決めたんです。その方が安いしね」

 ソビエト時代の生活を知りたかったが、二人とも若すぎる。歌手のエルザは30歳だと言った。元銀行員は、多分、25か26歳くらいだろう。ふたりとも1990年以前のソビエト時代を知らない。物心がついた時には、ラトビアはすでに自由な国になっていた。

 カモが泳ぐ池の淵に座り、ゆっくり話をした。私には聞きたいことがいくらでもあるから、雑談会というよりインタビューのようになった。元銀行員に、物価や収入のことなどを聞いた。

 「リーガの小学校か中学校の、20代の教師の月給はいくらくらいなの?」

 「学校によって違いはあるけど、700ユーロくらいから始まって、でも20代では1000ユーロを越えることはないな」

 ユーロの月給が日本円にしていくらかという換算は、交換レートによって違いが出るが、この時の交換レートで計算すれば、9~12万円くらいということだろう。ボーナスや公務員の各種手当などは、話がややこしくなるので詳しくは聞かなかった。

 「住宅費は、今のボクの場合で言えば、3人で3ベッドルームのアパートを借りていて、月600ユーロの家賃を3人で払っているから、ひとり200ユーロ。独身時代なら、この程度の住宅費で街の中心部に住むことができるけど、家族で暮らすなら郊外だ」

 ラトビアの外国語教育の話もちょっと聞いた。

 「ソビエト時代は、ロシア語は外国語じゃなくて公用語だった。教育はロシア語だけで行われたんだ。だけどボクたちの世代では、まずラトビア語、そして英語も徹底的にやる。そして第2外国語は、ボクの場合ドイツ語かロシア語が選べたんだけで、ビジネスでどちらが有効かを考えて、どっちも好きじゃないけど、ロシア語を選んだ。ドイツ人とは英語で仕事ができるから、ドイツ語は要らないだろうという判断さ」

 元銀行員は、ポケットからスマホを取り出し、何かを調べているようだった。

 「ラトビア鉄道歴史博物館は10時開館だけど、日曜と月曜が休館。と言うわけで、今日は休館です」

 休館のおかげで、こういうおしゃべりができた。旅に無駄な事なんかない。

 

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 あれから3週間ほどたって、やっと鉄道博物館に行った帰りのアクメンス橋。人々の服装はもう夏になっている。鉄道博物館の話は、後日。こうご期待。
 

1295話 スケッチ バルト三国+ポーランド 14回

 ポーランドの医者

 

 ワルシャワの宿には何種類もの部屋があるのだが、予約なしで行った私が利用できたのは2段ベッド2台のドミトリーだった。ドミトリーなのに、シャワーとトイレが室内にあるというのがちょっと変わっている。下段の私と向かい上段の男以外毎日宿泊者が代わったが、上段の男と話をする機会はなかった。昼も夜も、ベッドに寝転がって本を読んでいるようだった。

 ある日のこと、昼過ぎに宿に戻りひと休みをしていると、その男も部屋に戻ってきた。30歳ちょっと前くらいの長身の男だ。トイレやシャワーのためにベッドから降りることはあるから、顔を見るのは初めてではない。

「ずっと寝ていたから、体調が悪いんじゃないかと心配していたんだけど・・・」と私が話しかけた。英語を話す人なのか、おしゃべりができるほどの英語力があるかどうか、雑談ができる性格なのかのチェックでもある。

 「いやいや、健康ですよ。ワルシャワで勉強会があるんで、勉強が大変だったんですよ」と、なめらかな英語が返ってきた。自分はポーランド南部の医者で、勉強会のためにワルシャワに出てきているんだと自己紹介した。脳外科が専門なのだが、なにかの試験の準備をしているらしい。勉強会は今日で終わり、明日は勤務地に戻るだけなので、体も心も楽になったようだ。それから夕飯時までの4時間ほど、彼とたっぷりおしゃべりを楽しんだ。観光地巡りよりも、こういう雑談をしている時間の方がよっぽど楽しい。まずは、気候の話から。

 「故郷であり勤務地でもあるポーランドの南部の山岳地帯では、冬は寒いし、雪も多い。ボクが子供のころは、大雪で休校になるのは普通だったんですよ。20日くらいの冬休みがあったんだけど、今はあまり雪が降らなくなったんで、長い冬休みはなくなった。ここ5年くらいからだと思うんだけど、春がどんどん短くなっているような気がする。今日も30度でしょ。肌寒い5月から急に30度の6月だから」

 「ポーランドでは教育費はすべて無料。だから、ボクも授業料を一切払わずに医者になった。アメリカで医者になろうとしたら、とんでもない費用がかかるでしょ。ポーランドなら、タダ。それはうれしんだけど、医者の資格を取ったら、稼げるドイツやフランスに移住する者もいてね。ボクの医師免許でもドイツなどで医者として働けるけど、ポーランドを出る気はないね。ワルシャワに住むのも嫌だ。生まれ故郷で医者をやりたいんだ」

 「タダで医者になれるからからということでポーランドに留学し、医師免許を取ったらより稼げる国に移住する留学生も少なくなくて。ポーランド人の税金がそういう使われ方をしているということに、政府は今のところ静観しているけれど、今後は何かの対策を取ると思うよ」

 「ポーランドも日本のように少子化が問題なんです。だから、政府は『ふたり目を生もう』というキャンペーンをやっている。ふたり目の子供ができると、両親ともに産休が取れるんだ。それ自体は素晴らしいんだけど、ふたり分の労働力と税収が減るわけだ。国全体で見ると、支出が増えて収入が減るわけです。そうすると増税か、という問題が出てくるわけです」

 「若い医者の日常というのは、月曜日から金曜日までは仕事。土日は24時間の勤務(と言ってニコリとした。若い医者の悲惨さはここでも同じだ)。まとまった休みを取れることはあるけれど、普段はそういう生活で、勤務をしながら勉強をして、資格などの試験の準備をしているというわけです」

 「医者の立場から見て、ポーランド人の体の問題点と言えば、飲酒や喫煙などはもちろんなんですが、もっとも大きな問題は肥満でしょうね。ソビエトの手を離れ、自由に何でも食べられるようにあると、脂肪と砂糖の摂取量が急に増えて、それが原因でいろいろな病気が増えています」

 「日本人の死亡原因は、ガン、心臓、脳でしょう。ポーランドも同じようなものです。しかし、日本の若者の死亡原因は自殺でしょ。ええ、よく知られていますよ。かわいそうですね。原因は社会的な圧力ですか。親の過大な期待ですか?」

 私は、いじめの話などを解説した。

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 ワルシャワナチスによってほぼ完全に焼き尽くされた。戦後、昔の姿を復活させた。

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 だから、古そうに見える建物は戦後生まれだ。

 

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 これはワルシャワではなく、ラトビアのリーガ。こういう超肥満の人を見かける頻度は、スペインやイタリアほどは多くない。肥満が問題になっているタイでも思ったのだが、超肥満者が男よりも女に多いように感じるのだが、摂食障害のせいだろうか。

 

 

 

1294話 スケッチ バルト三国+ポーランド 13回

 フィンランド人旅行者

 

 ワルシャワの宿の入口で、30ちょっと前の二人の男が自転車からバッグを次々にはずしていた。自転車旅行者だ。夕方の6時といっても、もちろんまだ「真昼間」(まっぴるま)の明るさだ。ふたりの楽しそうな顔を見たら、そのまま黙って通り過ぎる気にはなれなくて、話しかけた。

 「きょうは、何キロくらい走ったの?」

 「たった93キロ。きょうは、それでおしまい」

 時速20キロだと、5時間で100キロ。時速15キロだと・・・計算がややこしいな、えーと、6時間で90キロか、と暗算した。休憩時間も入れて8時間のサイクリングなら、それほどの負担ではないだろう。

 「ヘルシンキから、フェリーでタリンに渡ったんだよ」。もうひとりの旅行者が話し出した。

 ふたりが住むヘルシンキから、フェリーでたった2時間のエストニアのタリンへ渡り、本格的に自転車旅行が始まった。

 「タリンから南に下る旅をして、今ワルシャワに着いたところさ」。もうひとりが言った。

 「私もタリンからワルシャワまで来たんですよ。自転車じゃなくてバスで来たんだけどね。夜行バスで、15時間」

 「我々は、15日間かかったよ。15日間さ」

 

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 リーガのバスターミナルで、長距離バスの時刻表を見た。プラハチェコ)、リブネ(ウクライナ)、ロッテルダム(オランダ)、ソフィア(ブルガリア)、ワルシャワポーランド)といった地名が出てくるが、ラトビア語表記だから、想像力を働かせて解読する。

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 エストニアのタリンのバスターミナルで撮影。トイレ付き。豪華ではないが、快適に旅ができる。こういうバスで旅をした。ここにも日本人旅行者が10人ほどいた。車体のタグに書いてある地名をそのまま書き起こすと、

MINSK, VILNUS, KAUNAS, TALLINN, ST.PETRESBURG, TARTU, WARSAW, RIGA, MOSCOW, HELSINKIなど。

 車窓からの景色がおもしろくないので、1枚も撮らなかったことを今後悔している。つまらない風景も資料映像にはなるのだ。

 

 自転車旅行をしているふたりは、楽しそうに笑った。15日前ならバルト三国はまだ涼しかったはずだ。最高気温が15度にもならないくらい肌寒い気候だった。それが、ここ5日ほどは30度前後の気温だから、さぞ暑かっただろう。

 「炎天下で暑かったとは思うけど、バルト三国は平坦だから、自転車旅行にはもってこいでしょ。峠越えなんて、ないし」

 「たしかに、道路は平らだから山越えなんてないんだけど、とにかく、道路が狭いんだ。とっても危なかった」

 そうだ、思い出したぞ。バルト三国の道路事情は良くない。ソビエト時代はわからないが、道路そのものがでこぼこだとか亀裂が入っているといったひどさではないが、狭いのだ。私はエストニアの首都タリンから、ラトビアの首都リーガを経由して、リトアニアのビニリュスを経由してポーランドワルシャワへとバス旅行をした。普通に考えれば、このルートはその国最高の道路だろうと思うのだが、「なんだ、この道路。タイやマレーシアよりもはるかに劣るな」と思った。

 それぞれの国の幹線道路を走ったと思うのだが、日本で言えば市道という程度の道路だ。2車線の道路で、おばあちゃんが道路を渡っていたりする。高速道路のように、道路が完全にほかの道路から分離しているのは、大都市に入る分岐点だけだ。

 道路は一応2車線だが、極めて狭い。そして、交通量が結構あるから追い越しできるチャンスはそう多くはなく、だから列をなす大型トラックの後ろにつくと、いつまでも時速60キロくらいで走ることになり、つねに追い越しできるチャンスをうかがっているということになる。

 道路の外側の白線の外、その部分を専門用語で路側帯と言うのだが、その部分の幅が狭く、すぐ外が砂利道だ。1メートルほどの路側帯を自転車やバイクでで走ると、トラックや大型バスがただ走ってくるだけでも怖いのに、追い越しをかけるために外側に膨らんで走って来られると、とても怖い。バスから道路を見ていて、そんなことを思ったのだが、ワルシャワで自転車旅行者と出会って、あの狭い道路を思い出した。

 もしかして、と思った。鉄道がロシアとバルト海を結ぶように東西方向に建設されたように、道路も東西方向に建設されたのかもしれない。東西方向の道路はまったくチェックしていないが、南北方向の幹線道路は、国際幹線道路である最高のものでも、狭い2車線の道路らしい。これがバルト三国の現実である。バルト三国の南北移動は大変なのだ。ポーランドに入ると、道路事情はやや好転する。

 「ここから、どういう旅をするの?」

 「ポーランドを走ったら、また南をめざして・・・」

 「地中海まで、それともアフリカまで?」

 「アフリカはない。そんな時間はないけど、地中海は見たいな」。もうひとりが、 「最終地はギリシャにしようか、それともポルトガルにしようか、まだ決めていないんだけど、暑そうだな」

 そんな話をしたのは、南ヨーロッパが40度を越える灼熱地獄になるちょっと前なので、あのまま南下していれば、どこかの路上で干物になっているかもしれない。30度を越えるワルシャワはもちろん暑いが、40度をはるかに越えるフランスなんて、想像していなかっただろう。

 

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 ワルシャワの道路。バルト三国からポーランドに入ると、急に道路が良くなったことがわかる。市内に自転車専用道路もある。

 

1293話 スケッチ バルト三国+ポーランド 12回

 ロシア人たち

 

 チェコバルト三国の違いは、ロシア人の存在だ。チェコもかつてソビエトの占領下にあったが、国内にロシア系住民はほとんどいない。ところが、バルト三国の場合は、リトアニアは全人口の5%くらいがロシア人だが、エストニアラトビアでは25%がロシア人で、リーガでは半分近くがロシア人だ。エストニアのナルバはエストニア人を強制移住させてロシア人を移住させた結果、市民のほとんどすべてがロシア人となっている。独立しても帰国も帰化もせず、ロシア語生活をしているロシア人の問題がチェコと大きく違うところだ。ラトビア独立後、ロシア人に自動的に国籍を与えるというシステムにはなっていないので、「ラトビア在住ロシア人」と、国籍を取得した「ロシア系ラトビア人」を区別して解説するのは難しい。

 リーガでは毎日ロシア語を聞いていた。会話を聞いていれば、宿の従業員がラトビア語とは違う言葉をしゃべっていることが多いのに気がつき、耳を澄ますと、「ダー、ニエット」がよく聞こえる。「はい、いいえ」はラトビア語なら「ヤー、ネー」だから、会話がロシア語に変わったとがわかる。

 今回の旅の最大の失敗と後悔と苦渋は、この宿だ。バルティック・ホステルというこの宿は、リーガ駅やバスターミナルに近いという立地条件の良さで選び、日本からインターネットで予約したのだが、これがとんだ食わせ物だった。帰国してから確認したのだが、ホテル予約サイトに載せている写真は別の宿の部屋だろう。「朝食付き」というのもウソ。「台所付き」というのは、電気ポットがあるだけ。ホテル唯一のテーブルの上の電球が切れかかってチカチカしているので、「換えてくれ」とスタッフに言ったら、その電球を取り外し「OK!」。そうか、わかった。天井のダウンライトの穴はいくつもあるが電灯がついているのはひとつだけだ。電球が切れると、そのままなのだ。

 チェックインするときにも、変なことがあった。住所氏名を記入するカードの裏に滞在中の注意が書いてある。チェックインタイムなどに関する注意はわかるが、「ホテル内の撮影は一切禁止」と書いてあり、「これをよく読むように」という念を押される。滞在して数日して、この注意はいったいなんだという疑問が強くなり、スタッフに聞いた。

 「なぜ、撮影禁止なの?」

 「そういう決まりだからです」

 「だから、なぜそういう決まりがあるのか聞いているんですよ」

 「えーと、furniture(家具)、わかります。家具などの写真を撮られて、誰かがマネして同じデザインの家具を作るとまずいでしょ」

 「おいおい、いー加減にしなさい! ここは美術館か、アートギャラリーか。このオンボロ椅子はあんたがデザインしたのか! ウソはいい。本当のことを言いなさい」

ばかばかしい言い訳に、私はいらだった。

 「客がこのホテルの内部を撮影して、インターネットで公開したりしたら、困るでしょ」

 「困るようなホテルにしているのがそもそもの問題じゃないか。汚い。壊れても修理しない。うるさい。暗い。悪いところばかりじゃないか。ただちに、修理改善しなさい! 撮影されて、うれしいようなホテルにすればいいじゃないか!」

 「オーナーが、ホテルには一切カネを使わないと言っているんだから、従業員の私に何ができると言いうのよ!! そんなに嫌なところに、なぜ泊まるのよ」

それを言われると、つらい。予約をしたのは私で、日本ですでに宿泊費は支払っている。

 クチコミ欄をよく読む習慣がないのだが、予約直前に読んでおくべきだった。リーガに着いてから、「宿を換える、宿泊費を返せ!」と言っても、応じるとは思えない。だから、作戦を変えた。ウップンを晴らすしかない。

 「宿泊料だけ取って、何もしない。修繕もしないというのがロシア式ビジネスなのか!」

 そのスタッフは急に声を荒げた。やはり、図星だったのだ。

 「国籍なんて、関係ないでしょ」

 「国籍には関係なく、ただ、金儲けしか考えていないオーナーということですね」

 「・・・・」

 この宿は、オーナーはおそらくロシア系(あるいはロシア人)で、スタッフもロシア系(親切な人がひとりだけいる)で、客もロシア人とロシア系ラトビア人が多い。

 この宿がロシア人のたまり場だということは気がついていた。ある日のこと、ロビーに大きな荷物がいくつも積まれていた。

 「きょうは何が起きたんだい」とたずねると、「いま、ロシアから客が着いたばかりなんだ」

 間もなくして宿にやって来たのは、10人ほどのロシア人の団体客で、旅行者には見えない。労働者の移動という感じで、男たちはひと晩泊って、どこかに消えた。ここに旅行者風に客はほとんどいない。日本風に言えば、駅裏の商人宿という感じなのだ。そのせいで、旅行者と話をする機会はなかった。エストニアでもリトアニアでもワルシャワでも、旅行者たちとの会話を楽しんだが、リーガでは話し相手がいなかった。

 バルティック・ホステルは駅前のマクドナルドがあるビルの3階にある。このビルの1階エレベーター前に立った時、極少チョンキンマンションだなと思った。香港の安宿ビル、チョンキン(重慶)マンションとは比べものにはならないが、安宿が何軒かある。ところが、旅行者にはほとんど出会わないのだ。たった一度、いかにもバックパッカーという若い女性とエレベーターで乗り合わせ、「泊まっている宿は、どう、いい?」と聞いてみたら、全休符のあと、「ええ、まあ、いいです」といった。

 駅に近い安宿はほかにもある。1泊だけの緊急避難の宿泊なら我慢できるだろうが、それ以上滞在するなら、ここはおやめなさい。

 

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  ホステルの看板がいくつもあるが、旅行者の姿はあまり見なかった。

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  宿から外を見る。この写真では見えないが、右手方向にがリーガ駅がある。窓ガラスの掃除をした形跡はない。カーテンを巻き上げる器具が壊れているから、カーテンを巻き上げて洗濯ばさみで止めて撮影をした。

 

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  左手がリーガ駅。駅前通りを渡るとマクドナルドがある建物。その3階の半分が、バルティック・ホステル。カーテンが少し巻き上げているのが私の部屋。駅周辺にはスーパーマーケットやショッピングセンターや映画館がある。バスターミナルや空港とリーガを結ぶバスの発着所も近くにあり、ロケーションはいい。しかし、この周辺にも安宿が多くあるので、この悪徳宿はやめておきなさい。

 

1292話 スケッチ バルト三国+ポーランド 11回

 韓国人たち

 

 リーガにラトビア占領博物館というものがある。Latvijas Okupacijas Muzejsというラトビア語をにらむと、英語のoccupancy(占領)の仲間の単語らしいと想像できる。元アメリカ大使館だった建物だというが、大した建築物ではないことからアメリカとの浅い関係という歴史がわかる。現在アメリカ大使館はバウガバ川の向こう側の、広い敷地に大きな建物に移っている。そして、この元大使館は、ちょっと前のガイドブックでは「2018年10月移転予定」と書いてあるが、2019年6月にはまだあり、本当の移転がいつになるかはっきりしない。移転場所は、観光名所ブラックヘッドの会館隣りだが、工事はまだまだかかりそうだ。

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 占領博物館正面入り口。「1940~1991」と占領された時代が書いてある。

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 占領博物館の移転予定地。手前の茶色と青い屋根がブラックヘッドの会館。その向こうの緑色の網がかけてあるのが、建設中の占領博物館。もしかすると、ここにKGB博物館も移転予定なのかもしれない。

 

 さて、その占領博物館に行った。2階が展示会場で、階段を昇ったところにあるちょっとした空間に応接セットのような椅子とテーブルがあり、テーブルの上にラトビアとなぜか韓国の旗が置いてあるのに気がついた。さて、その意味が分からないなと思いつつ、ラトビアソビエトに占領されていた時代の写真展示を見ていたら、階段の方でざわざわと騒がしくなった。狭い展示室だからすぐに階段の方に行ってみると、20人ほど背広姿の男たちが階段を上がってくるのが見えた。大きなテレビカメラを持った男がひとり、一眼レフのカメラを持った男がひとり、上着は着ているがネクタイを締めている者はいない。若い女がふたりいる。男たちのちょっとくたびれたジャケットから、「中国人か、北朝鮮人か?」などと思ったが、韓国の国旗を掲げているのだから韓国人に違いない。数十年前ならいざ知らず、背広姿の韓国人も日本人も見かけは変わらないはずだが、このとき貧乏臭く見えたのは、おそらくトランクに入れてきた上着がしわくちゃになっていたからかもしれない。

 垢ぬけない服装から、小さな町の市会議員かと思った。リーガと姉妹都市関係にある韓国の市かとも思ったが、帰国してから確認すると、韓国とラトビア間に姉妹都市関係にある市はない。これだけの人数で、テレビカメラもついてきているということは、国会議員の訪問団だろうか。日本なら、こういう場所は義理で5分か10分で通り抜け、すぐに遊びに行くというのが「議員の視察旅行」の常識だから、韓国も同じようなものだろう。

 館長らしき人が、訪問団に展示物の解説をていねいにしている。狭い館内がざわざわしているので、私は階段そばの狭い展示室に避難した。説明はまだ続いている。訪問団は20分経っても、まだ館長の解説を聞いている。義理のお付き合いではなさそうだ。韓国もラトビアも、つらく悲しい占領体験があるから、この博物館を訪問しようと思ったのか。ドイツとロシアに挟まれているというのがバルト三国の悲劇だが、中国と日本に挟まれているというのが朝鮮の悲劇だ。

 ベンチに座っていると、訪問団のメンバーのひとりである若い女性が私の隣りに座り、壁のモニターのスイッチを入れた。ラトビアの歴史映像だ。ラトビア語のナレーションが流れているから、モニターの「En」のスイッチを押してあげた。英語放送のスイッチだ。

 彼女は「サンキュー」と言ったので、このチャンスに飛びついた。いくつかの疑問を解決したかったのだ。

 「あの人たちは、国会議員ですか?」

 「はい、そうですが・・・、どちらからいらっしゃたんですか?」

 「日本です」

 「我々は韓国から来たんです」。そうか、”Korea”じゃなくて、ちゃんと”South”をつけるんだとは思ったが、韓国人だということはとっくにわかってますよとは言わなかった。

 「訪問団の目的は、通商交渉とか、そういったものですか?」

 「いえ、ごく一般的な・・・」

 「友好関係と作るといったような?」

 「はい、そうです」

 「ラトビアでも、韓国企業の進出は盛んですね。川向うの高層ビルには”LG”という大きな看板がかかっていますね」

「へえ、そうですか」

 彼女は韓国大使館の職員が、韓国から一緒に来た、例えば外務省の職員かどちらかだろうと思っていたのだが、あのLGビルを知らないとなると、訪問団の世話をするために韓国から来たのだろう。

 訪問団は階段を昇ったところに設けたテーブルにつき、写真をとり、なにかの文書に署名しているのかもしれないと思ったが、私は展示会場にいたので、具体的にどういうことが行われたのかは知らない。

 それにしても、なぜ占領博物館なのだろう。友好訪問団がラトビア人と仲良く写真を撮るなら、宮殿のような部屋とか、大きな教会の特別室とか、写真映えする場所を選びそうなのに、なぜ占領博物館なのかという疑問が消えないので、彼女に聞いてみようと思ったところで、訪問時間の終了となり、訪問団は退出した。

 

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 川向うの中央にある高層ビルに、「LG]という大きな看板がかかている。左手はラトビアの最高層建造物であるテレビ塔だが、観光用に開放されていないようだ。 

 

1291話 スケッチ バルト三国+ポーランド 10回

 フランス人たち 

 

 リーガの雑貨店で絵葉書を探した。スマホのせいで絵葉書は瀕死の状態かと思いきや、絵葉書になじんだ高齢者からは一定の支持があるらしく、絵葉書を売っている店は多い。その値段は店によってかなり違うから、散歩をしながら、土産物屋や本屋や雑貨店などをいろいろ巡っておもしろい図柄で安い絵葉書を探すのだ。

 リーガの雑貨屋で手ごろな絵葉書を見つけ、レジに持っていったら5人ほどの列ができていた。ひとり目の客が店員に絵葉書を指差し、何か言っている。

 「Paris! Paris!」

 店員は、「切手が欲しいんですね。何枚ですか?」と英語で聞くが、中年女性客はフランス語で叫び続け、店員が切手を見せると、「Trois!  Trois!」と怒鳴るが店員には通じず、右手で「3」を示そうとするが、中指、薬指、小指の3本をやや伸ばしている程度だから、5本の指を丸めて見せているように見える。そういうやり取りがあって、やっと切手3枚購入。次の客は、「Cinq!」と叫び、ああ、またフランス人かとがっかりしたが、5は手の平を見せればいいので、すぐ5枚購入。

 お前ら、英語で3や5くらい言えよ。列の後ろで待っている者のことも考えろとイライラしていた。

 リトアニアの野外博物館の食堂は、窓口で注文し、その脇で商品を受け取るという方式で、昼時に加えて小雨が降って来たので、食堂は混んでいた。窓口前に長蛇の行列ができていた。フランス語が聞こえてきた。最前列にいる、やはり中年フランス人女性が大声のフランス語でしゃべり、店員は「何がお望みですか?」と英語でたずねているが、女はフランス語でしゃべり続けている。しばらくすると、列の後から男の声が聞こえた。英語だ。

 「ここじゃ誰もフランス語を話さないよ。英語を話せよ!」

 その声を無視したのか、あるいはその英語もわからないのか、女は無視してフランス語をしゃべり続ける。列の後ろから、少しフランス語がわかる人が通訳を買って出て、しばしのやりとりがあり、問題は解決したようだが、そのフランス人が何を言いたかったのかは、私にはわからない。

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 フランス人にうんざりさせられたあと、やっと昼飯にありついた。ロシアのボルシチ風スープとチーズを塗った黒パンのセットで5ユーロ。日本円にして630円は高いが、博物館のなかの食堂ということで、割高の価格設定になっているのだろう。ボソボソの黒パンも、チーズを塗るとうまくなる。

 

 その昔、「フランス人は英語がわかっても、フランス語しかしゃべらない」という話は何度も聞き、安宿でその話が出ると、旅行者たちは「『英語がわかっても』じゃなくて、フランス人は、そもそも英語は話せないんだよ。話す気がないんだから」という結論になった。時代が変わり、フランス人でも若い世代だと英語をしゃべる人もいることはわかっているが、考えてみれば、フランス人のひとり旅というのはめったに会わない。若いフランス人のグループには出会ったことがあったが、訛りの激しい英語に苦しんだ経験がある。

 アメリカ人やイギリス人は、世界の人が英語を話せばいいと思っていて、世界はその希望に近づきつつある。

 中国人も、世界中の人が中国語を話すようになればいいと思ってはいるが、それは無理だということがわかっているから、カタコトの英語ででも意思を伝えようとする(中国語しかしゃべらない中国人にプラハで会って、にわか通訳をさせられたことはあったが・・・)。

 フランス人は、世界の人がフランス語をしゃべるのは当たり前だと思い、フランス語がわからないのは不勉強で教養のない人間だと思い、勉強しないお前らが悪いと思っている。

 “Three”さえ言わないフランス人を目の当たりにすると、信念を持って、英語を口にすることを拒否していることがわかる。それはそれでいいから、そういう人はフランスの国境を越えないでほしい。あんたの信念のせいで、ほかの旅行者が迷惑しているなんて考えたこともないでしょうね、フランス人は。悪いのは我々フランス人じゃなくて、フランス語をしゃべらない店員の方なんだと思っているのだから。

 

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 本文に関係ないが、リーガの街並み。すっかりくたびれ果てて汚れていたソビエト時代の旧市街の建物は、この30年で化粧直しをして観光的価値を高めた。

1290話 スケッチ バルト三国+ポーランド 9回

 タイ人たち 

 

 旅行先でタイ人に会うのは、もはや珍しいことではなくなったが、それでもベネチアのような世界的観光地ならいざしらず、バルト海地方だと、やはり驚く。

 夕方、リーガの旧市街を歩いていたら、パジャマのような安っぽい上下を着て歩いている女が目に入った。長い髪は先半分が金髪、元から半分が黒い。その女の回りを4人の男が囲んでいる。女が隣りの男の方を向いた。顔はアジア系で黒い。30歳前後だろうか。眉が異様に細く描いてあり、化粧も異様で、お化けメイクのようだ。女が口を開いた。タイ語だった。

 「マイミー・アライルーイ」(なーんにも、ないよ)

なにがないのか、何も探しているのだろうかと、他人の行動が気になった。「食堂」とか「腹が減った」といった会話が耳に入ってきた。レストランを探しているようだが、そこは旧リーガ城、元大統領官邸のすぐそばだから、飲食店はない。タイ人5人は、立ち止まり、今来た道を引き返していった。観光客風ではないあの5人は、何者だろうか。

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 このリーガ証券取引所美術館の左手の路地を入ると、すぐにリーガ城(元大統領官邸)に至る。この広場を最後に飲食店はなくなる。

 

 ポーランドワルシャワでは、ふた組のタイ人と出会った。ワルシャワのワジェンキ公園というやたらに広い公園を散歩していたら、タイ語が聞こえた。姉妹の家族という感じの6人のタイ人に、たぶんポーランド人のガイドがついている。男2人、女4人のグループだ。タイ語をしゃべるポーランド人というのもおもしろいなと思いつつ、すれ違った。

 公園を出てベンチでひと休みしていたら、そのタイ人たちも公園から出てきて、ひとりが私の隣りのベンチに腰を下ろした。50代の女性だ。

 「暑いですね」とタイ語で話しかけた。

 「ええ? タイ人?」

 「違いますよ。日本人ですよ」

 「ねえ、タイ語しゃべる日本人がいるわよ!」と、ほかのタイ人たちに声をかけ、いつものように、「なぜ日本人がタイ語をしゃべるのか」という質問になり、ほかの人が 「しょっちゅう行ってるんでしょ」と簡単に結論を出し、「タイ人の愛人がいて・・・」というお決まりの質問にならなかったのは、このタイ人たちの教養のせいか。

 私が日本人だとわかって、日本旅行の思い出を話し出た。日本には何度も行っているという。

 「何が目的なんですか? 買い物?」

 「違うわよ。食べ物よ。日本料理は世界で一番おいしいから」

 やはり、時代が変わったのだ。生ものを決して口にしない中国人が、すし、刺身を食べる時代だ。スパイスを使わないから、「日本料理は味が単調」と言って、天ぷら以外はあまり食べたがらなかったタイ人が、日本料理を目当てに日本に来るようになったのだ。

 3列シートのクルマが来て、彼らは乗り込んだ。公園出口にいたのは、迎えの車を待っていたのだ。「明日は、プラハ。えーと、それ、どこの国だっけ?」と言って笑い、別れた。

 もうひと組のタイ人もワルシャワで出会った。変化のないポーランド料理に少々飽きて、「アジア料理」という看板を出している店に入った。メニューを見ると、「トム・カー・ガイ」がある、ショウガの仲間のカーと鶏肉を入れたココナツ味のスープだ。外国では、トムヤムクンは、辛いから西洋人にはあまり好まれないようだ。中国、ベトナム、タイ料理の店だ。私はパッタイ(タイの焼きそば)を注文した。その時、店にいる客のひとりが携帯電話で話している言葉が耳に入った。タイ語だ。そのあと、店にいた男たち5人全員が、タイ語で話し出した。

 「ここのパッタイはうまいの?」

 「ああ、うまいよ」

 そう言って男たちは立ち上がり、店を出ていった。

 タイ人たちは観光客には見えない。その姿は、実業団の運動選手が、練習を終えて食事に来たという感じで、皆タイ人にしては背が高く、ジャージ姿だ。サッカーか何かのスポーツ選手かと思って店員に聞いてみたが、彼らの素性を「まったく知らないなあ」と言った。

 タイ人が「うまいよ」と言ったパッタイだが、まったくうまくなかった。鶏肉がゴロゴロしていて、箸で食事する人のことがわかっていない。逆に言えば、ナイフとフォークで食事をする人向けの料理法だとわかっただけでも、この店に入った収穫はあった。

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  ワルシャワの料理店の、パッタイと称する料理。鶏肉がゴロゴロと大きい。客がアジア人だとわかると、竹の割り箸を持ってくる。右の赤いのは飲み物ではなく、甘辛いソース。24ズウォティ、日本円にして約700円。安宿の朝飯が450円、カフェでコーヒーとシナモンブレッドで300円というのがワルシャワの物価だ。