1442話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その9

  

 「売れる本の書き方を、教えてよ」と天下のクラマエ師に言うと、「フン」と鼻でせせら笑い、「そんな本を書く気もないくせに」。

 書く気がないわけではない。売れる本の書き方がわからないし、たぶん書く能力もないようだ。

 本は売れた方がいいに決まっている。しかし、収入が増えるというのはたいしたことではない。カネに執着していないというわけではもちろんなく、元々大した収入にならないのだ。ベストセラーのマンガのように売れるならともかく、旅行書など「売れた」といっても草野球レベルなのだ。旅行費用を取り戻そうなどとはハナから考えていないが、資料購入代金を考えると、初版印税など大して残らない。

 だから、「売れた方がいい」というのは、当然カネは欲しいが、それよりも次の本が出せる可能性が高くなることの方が大きい。出版社が、「もう一冊出してもいいか」と思えるほどの売り上げは、著者にとっても編集者にとっても欲しいのである。

 売れる本の書き方を、まったく知らないわけではない。「行った、撮った」というようなインスタ本はたぶんそれほど売れてはいないだろうが、私の自撮り写真をちりばめても売れるわけはない。カラー写真満載の詳細ガイドは売れていると思う。そういう本の取材のしかたもわかるが、そんな苦労はしたくない。早朝から深夜まで細かくスケジュールを立てて、正確に取材をこなしていくのは、私だけではなく、あんなあわただしい取材に耐えられる男はそうはいないと思う。菓子でも雑貨でも、店で取材するだけでなく、大量に買い集めた商品を毎日ホテルで撮影するというような手間は、男のライターにはとても務まらない。だから、その手のカラー写真&イラスト満載本の書き手は、ほとんど女だ。彼女たちには、それが楽しい旅行なのかもしれないが、私にはできない。

 私は取材をしたいのではなく、旅をしたいのだ。スケジュールを決め、商店やレストランに取材の予約を入れて・・・などという行為は、絶対にしたくない。

 自己啓発本型の旅行書が売れているらしいが、宗教書のようなこの手の本は、書き方がわからない。旅行で自分を探したい人の手助けとなる本など、私にはとても書けない。「好きなように旅すればいいじゃない。旅が人生を教えてくれるなんて、旅を過大評価しないほうがいい」と思う私には、旅の教義書など書けない。「旅の達人が教える指南書」といった本など、他人に教えるほどの旅の技術も知識もない私にはとうてい書けない。

 「バカ話」本を書く筆力はない。辺境・冒険・探検モノは、そもそもそういう土地に行く気がない。本を書くために命を懸ける気などまったくない。人が住んでいない場所に行く気はない。つらいのは、いやだ。疲れる旅はしたくない。軽い文体を駆使して、1時間で読み終える本を書く才能はない。そういう書き手はいくらでもいるから、私がマネをすることもないかと考えると(実はマネできないのだが)、売れる本からますます遠ざかる。

 売れる本を書くためには、心を入れ替えて、柿田川の清流のような心で、誰からも好かれる文章を書きなさいという人がいるかもしれないが、私が「いい人キャラ」で文章を書いても(書けるわけはないが)、それで売れ行きが上がるとは思えない。

 不本意な文章を書いても売れないだろう。だから、どうせ売れないなら、ブログで好きなことを好きなように書いているほうが楽しいと思うようになった。

 そうやって、280万字ほどの文章を書いてきて、やっと「本にしませんか」と声をかけてくれる編集者が現れた。こういう奇特な編集者の厚意に報いるには、次の1冊をその編集者が企画したとき、「あいつの企画じゃなあ・・・」と社内で笑われない程度には売れてほしいと思うのである。

 

1441話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その8

 

 ブログであれ雑誌連載であれ、何度も同じ話を書かなければいけないことがある。例えば、連載第4回で「プラハの春」の説明をていねいにやっておけば、あとは説明なしでいつでも「プラハの春の時・・・」と書いてもいいかというと、そうはいかない。読者は何度にもわけで読むわけだし、1度中断して10日後にまた読み始めるということもあるから、わかりにくい話は、折を見てなんどか書いておく必要がある。

 ブログの場合は、たまたまその日に初めて読んだという人もいるから、なるべくわかりやすく書こうとすると、説明がくどくなる。最初からきちんと読んでいる人には、「また、その話かよ・・・」となるだろうが、それは仕方がないとあきらめて、あえてしつこく書くことにした。

 ブログを単行本化するにあたり、このくどい説明をどうしようかと考えたが、単行本でも一気に最後まで読む人は多くないだろうから、やはりあえて簡素化しないことにした。

 単行本化でもっとも考えたのは、リンクだ。ブログでリンクを貼れば、地図でも映画の予告編でもユーチューブ動画でも簡単に紹介できる。「この歌」と書いてリンクを貼れば、読者はインターネットの音楽を誰でも聞くことができるのだが、単行本では難しい。紙面にURLを書いておくこともできるのだが、そのURLを自分のパソコンで調べる人がどれだけあるだろうかと考えると、「ほぼ、いない」という結論に達した。

 チェコ映画の話を書いた。もし、もっと詳しく知りたいと思う人は、その映画の情報を探すだろう。すると、予告編があることをしるかもしれない。あるいは、その映画がまるまるネットで公開されていることもある。知りたければ、情報はいくらでも自分で探せる。知りたいという好奇心のない人なら、紙面でいくらURLを紹介しても、調べないだろうという結論に達して、ブログに載せたおびただしいリンクはすべて削除した。

 このアジア雑語林の1437話で、ブログの文章は印刷物と違って、いくらでも長くできるのが特徴だと書いた。文章だけでなく、写真も好きなだけ使える。だから、同じような写真が延々と続くインスタグラムのようなブログが少なくない。文章に磨きをかけないように、写真の選択にも注意を払っていないのだ。

 我がブログでも写真をかなり載せたが、単行本ではほとんど載せられなかった。写真集ではないからいたしかたないのだが、産業編集センターの「わたしの旅ブックス」の中では、編集者の努力によるものだと思うが、私の本にはカラーページもあり、写真がかなり多い。

 プラハ旅行記を校正しながら、写真について考えた。写真1枚がどれほど長い文章よりも如実に事実を語るという例はいくらでもある。外国料理は写真なしに読者に理解させようというのは無理だ。建築も、そうだ。だから写真の効用は充分にわかった上ではっきり言うが、インスタグラムの盛隆は、送り手が言語による説明を放棄した結果ではないかと思う。プラハで食べた料理を文章で説明するとなると、料理の名前や材料や料理法を調べて文章表現しないといけないのだが、数多くの写真に「こんなのを食べました」という文章を添えれば「ブログは出来上がり」にしてしまった。「見ればわかる」ような感じになるが、材料などの解説がなければ、じつはその料理はわからない。人差し指1本しか使っていないブログは、底が浅い。

 写真は諸刃の剣だ。

 

  

1440話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その7

 

 2019年12月25日に、産業編集センターの佐々木さんから、「アジア雑語林のプラハ旅行の話を本にしたいのですが、いかがでしょうか」というメールをもらい、翌2020年1月10日の午後、神田神保町のタンゴ喫茶ミロンガ・ヌオーバで佐々木さんに会った。夕方からアジアの勉強会があるので、その前の打ち合わせだった。考えてみれば、その次に神保町に行ったのは2月9日で、今のところ電車に乗ったのもそれが最後になっている。2月9日は、CD選びに時間がかかり、古本探しは時間切れになったから、神保町で本を買ったのは1月10日が最後なのだが、遠い昔のことのように思える。そういえば、書店で本を買ったのも、今のところそれが最後だ。

 出版の企画をありがたくお受けすると、編集者に返事した。アジア雑語林の「プラハ 風がハープを奏でるように」の文章は1冊にするには長すぎるので、大幅にカットしなければいけないという。原稿の取捨選択は全面的に編集者にお任せすることにした。著者が編集すると、「これは捨てたくない」という希望が増えて、なかなか捨てられなくなる一方、「これは、削除してもいいか」と腹をくくると、「残す価値がある文章などあるだろうか」と考え始めて、本にするような文章などないように思えてくる。だから、取捨選択は他人まかせにしたほうがいい。

 しばらくして、ゲラ見本のようなものが届いた。雑誌などの連載だと、印刷物をデジタル化する手間がかかるのだが、ブログ「アジア雑語林」はデジタル原稿だから、完成した本のレイアウトに合わせて原稿を流し込むことなど朝飯前だ(私にはできない技術だが)。その見本原稿の試作品のようなもの(校正刷りという)を、出版業界ではゲラという。そのゲラの前の段階だから、とりあえず「ゲラ見本」と書いた。

 編集者の手で、すでに取捨選択がなされ、原稿は元の3分の2ほどになっている。それをもとに、「写真も入るので、なお一層、減らす方向で構成を考えてください」ということで、著者である私が覚悟を決めてさらにバッサリと切り捨てると同時に、「でもなあ・・・」と敗者復活させる原稿もあった。加筆するのは簡単だが、切るのはつらい。だから、ひと工夫して、本文を写真説明にするとか、編集者と相談して、いろいろ工夫した。

 そういう作業を始めるころには、新型コロナの影響が深刻になり、「どうも、しばらくは旅行に行けそうもないな」という予感があり、今年の春はこの本に関わることで、著者も編集者も自宅蟄居の時間を過ごした。

 ブログというのは、編集者も校正者もいない文章なので、誤記、誤字、脱字がいくらでもある。それがわかっているから、公開するまで何度も見返しているのだが、やはり誤記はある。書き手の校正は、文章の内容ばかり気にするせいで、誤字に気がつかないことが多い。校閲者の仕事は表には出ないが、非常に重要な仕事だ。

 校閲に関して感動的だったのは、『旅行記で巡る世界』(文春新書)を担当してくれたおふたりの校閲者の仕事ぶりだった。あの新書は実に多くの本が登場し、引用も多い。そのすべての原典にあたって、引用部分がどこにあるか調べ、正しく引用されているかどうかチェックしている。入手困難な資料もあるのだが、どこかで探して、「原文はこうです」と、引用した文章の誤記を指摘してくれた。文章そのものチェックは編集者がやってくれるが、内容まで踏み込んで調べてくれる校閲者の、見事な仕事であった。だから、感謝の意を込めて「あとがき」に校閲者のお名前を紹介した。出版業界では、経費節約のために、そういう有能な校閲者が活躍できる仕事は減っているらしい。

 校閲といえば、石原さとみ主演の「地味にすごい!校閲ガール」というドラマがあったが、出版業界を知らない人に書いておくと、あれはドラマの世界であって、ほとんど現実離れをしている(刑事ドラマも医者ドラマも同様だが・・・)。ついでに書いておくと、あのドラマに「あの雑誌、ついに廃刊になった」といったセリフがあったが、これは「休刊」が正しい。商店の「休業」と「廃業」の違いのようなものか。刊行をやめても復刊することもあるから、休刊なのだ。

 もうひとつついでに書いておくと、ラジオで「あの本、もうハイバンになって・・・」と言っている人がいた。廃盤ならレコード、廃番だと靴や衣料品などさまざまな製品。本の場合は、品切れの場合は「品切れ、重版未定」という。種々の事情で、「もう重版はしない」と決定した場合は、「絶版」という。

 

1439話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その6

 

 取材ノートを書いていると、旅のあれこれが整理されて、どのテーマを文章にするかが次第にわかってくる。ノートに書いたことに肉付けすればいいから、帰国後、この取材ノートを読み返すことはあまりない。わずかに、固有名詞の確認くらいだ。

 文章を書くことに関してプロとアマチュアの違いは文章力ではない。文章がうまいアマチュアなどいくらでもいる。プロは、「このネタで1000字は無理だから、なにか工夫をしよう」とか、「このテーマなら1冊の本になる」というように、どれだけの材料があれば、どのくらいの長さの文章を書くことができるかがすぐにわかる人だ。プロは、書く材料を整理して、必要なら資料を読む。

 ブログの原稿は、一気に20話分くらい書く。原稿量にして3万6000字くらいだ。書きながら、私の知識の欠陥部分を補強するために、必要資料をアマゾンに次々と注文していく。資料を読みつつ下書きを修正・補強して、完成原稿に近づけていき、順次公開していく。逆に、資料をあれこれ読んでいるうちに、旅行中には思いつかなかったテーマが見つかることもある。すでに書いた原稿に手を入れつつ、先の文章を考え、書いていく。そして、また資料を注文する。

 だから、原稿は何度も読んでいるというのに、「ええ、なんだよこれ!」というような、誤記、誤字、脱字を見つけてしまう。公開してから気がついて、訂正するのは日常茶飯だ。著者の校正は、文章の内容を中心に考えるから、変換ミスや人名の誤記などにはあまり気がつかないものだ。

 通常、ブログに編集者はいないが、唯一、このブログの校正をやってくれるのが、天下のクラマエ師だ。

 私は、異常と言ってもいいほど、数字に弱い。「1985年の統計では2300だったものが、1995年になると23%増の・・・」という音声が耳に入ると、トタンに耳は聴力を失う。「聞く耳を持たない」のだ。7より上の九九はいまだに怪しい。「6・7」はすぐにわかるが、「7・6」になるといったん「6・7」に変換しないと回答が出ない。私は算数レベルを習得できていないのだが、それでも外国に行けば「暗算の天才」となって、つり銭の不正はすぐに指摘できる。何語であれ数は聞くだけでなく、読むほうもダメだ。タイにはタイ文字の数字があるが、何度覚えようとしても、すぐに忘れる。不思議なのは、アラビア文字の数字は今も書けるのに。

 このアジア雑語林でいえば、「1221話」のあと「1125話」と書いてしまったりする。単なる打ち間違いということもあれば、途中で新原稿を何本か挿入した結果、番号が重複してしまったという例などが実際にあり、蔵前さんがしばしば指摘してくれている。ありがたいことだ。間違いを教えてくれるのはありがたいことなのだが、そうとは受け取らない人もいる。

 自尊心があまりに強いからか、誰かに誤りを指摘されると、烈火のごとく怒る人がいる。ある大学教授が書いた本に、明らかな誤りがいくつかあったので、それを説明するメールを送ったら、怒りの返信があった。たかがライターごときが、博士である大学教授が書いたものにアレコレ言うなど笑止千万、100年早いとまでは書いていないが、まあ、そういう感情なのだろうなと推測できた。素直に誤りを認めたくないから、反論がまともではなく、居直りと屁理屈でしかない。そういう人がいるから、誤りなど告げずに、「唇寒し」という生き方をする人が多いのだろう。

 

 

1438話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その5

 

 本の話と雑談が、アジア雑語林の基本だったのだが、2013年の旅行記「台湾・餃の国紀行」以後、旅行記を中心としたブログになっている。そうしようと意図したのではない。母が死んで介護の必要がなくなったので、長い旅行ができるようになり、旅行が長くなれば旅行記も長くなっていったというわけだ。資料を読んで書くので、旅行記がますます長くなった。ブログが書評から旅物語に変わっていったのには、もうひとつ理由がある。ブログで取り上げたくなる本がなかなか見つからないからでもある。

 20代前半の、旅を始めたころは旅日記のようなものを書いていたが、すぐに書かなくなった。めんどうだったからだ。講談社文庫に入っている旅行エッセイは、すべて記憶で書いている。忘れてしまったことは、たいして重要ではないことだ。長い年月が流れても、それでも覚えていることが重要なことだと思っていた。だから、覚えているエピソードを書いただけだ。

 ここ10年ほど、旅日記を書くようになったのは、知りたいことのテーマがはっきりしてきて、より深く掘り下げたくなったからだ。食文化、建築、音楽、路上、交通、映画など関心分野がある程度決まってきた。帰国してから充分に調べるために、疑問点などを書いておく必要がある。

 私の旅行記の書き方はこうだ。

 旅行中に、見聞きしたことや考えたことなどを書いていく。「日記」と書いたが、実際は日々書く取材ノートのようなもので、他人には読まれたくない個人的な思いや反省などが書いてある「日記」ではない。随想も思索もほとんどしないから、抽象論も哲学もない。たんなる取材メモだが、書いているうちに長くなる。メモを書いていくと好奇心が刺激され、あれもこれも書いておこうとする。帰国してから深く調べるための、自分への宿題も書いておく。

 自分の関心分野はあまり広くないので、毎日ノートにメモを書いていても支離滅裂にはならず、しだいに目次のようなものが頭の中できていく。旅行中に、どういうテーマなら書けそうかとか、書くにはどういう取材が必要かなどと考えている。雑誌などから依頼されたわけでもないのに、「これは、おもしろい」という柱ができていくのである。取材旅行ではなく、完全に自費の自由旅行なのだが、調べている旅が楽しいのだ。

 取材ノートは、文字通りノートに手書きする。普段、日本では文章はもっぱらパソコンで書くようになり、手紙も手書きをすることは少なくなった。そのせいで、元々ひどく下手だった書き文字がますますひどくなり、ペンを持つと手が震えるようになった。力の入れ方が変になったからだろう。字が下手で、しかも漢字をかなり忘れている。パソコンの原稿なら、あとでいくらでも訂正できるから、考えがまとまらないうちに、とりあえず、書く。そういう悪癖を少しでも直したいと思うので、旅行中は手書きを続けた。ノートパソコンは持っていない。重く、壊れやすい電子機器を持ち歩きたくない。

 数年前から、筆記具を万年筆に代えた。すぐ消せるフリクションペンは、書き味が悪いのだ。まったく偶然なのだが、使い捨て万年筆1本かスペアインク1本がノート1冊分に相当し、1冊書くと、インクも旅も終わる。コーヒーを飲みながら、旅のあれこれを思い出すままに万年筆で書いていくのは、指と頭のリハビリである。カネはなくても時間はあるのだから、せめて1日に1時間くらいは、ノートに向かい、その日受け取ったレシートを読み、映画の入場券も一緒にノートに貼り付け、説明や疑問を書いていく。

 旅先で書きたいことがいくらでもあるということは、じつに幸せなことだ。

 

 

1437話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その4

 

 前回、『アジア文庫から』の話を書いた。まだ在庫があるかどうかめこんに問い合わせていて、思い出したことがある。めこんの最新刊は『動きだした時計 ベトナム残留日本兵とその家族』(小松みゆき)なのだが、小松さんの最初の本『越後のbaちゃんベトナムへ行く』(2007年。2015年に『ベトナムの風に吹かれて』に改題して文庫に)を、大野さんは高く評価していて、私に勧めたことを思い出したのだ。日本でひとり暮らしをしている母が認知症になって、ハノイ日本語教師をしている娘が母をベトナムに呼んでいっしょに暮らすようになるというノンフィクションだ。アジア文庫店主のお勧めだったが、「まあ、いいか」と後回しにしていた。その本を読んだのはずっと後になって、2015年にハノイ旅行の資料として読んだ。映画「ベトナムの風に吹かれて」(2015)の原作にもなったこの本を、大野さんが気にいったのは、店に出版のあいさつに来た小松さんの人柄によるものもあったのだろうが、大野さん自身、大分でひとり暮らしをしていた母が認知症になり、母の面倒を見ていた弟がガンになり、母を東京に引き取ろうとしていた頃だったから、共感することが多かったのだろう。そういういきさつは、大野さんが亡くなる直前に知った。

 アジア文庫のパーティーをやったのが2010年5月だった。葬式本の制作費込みのパーティー代だから高額になったにもかかわらず、多くの人が来てくれたので、赤字にならずに済んだ。

 そして、6月か7月ごろだったか、はっきりした記憶がないのだが、旅行人の蔵前さんが「もしよければ、ウチのホームページでアジア文庫のコラムを継続しませんか」と声をかけてくれた。アジア文庫の「アジア雑語林」を、旅行人のホームページの店子として復活継続しませんかという厚意を喜んで受けた。ただし、移管作業など、私には到底できないので、旅行人の元編集者である田中元さんがすべてぬかりなくやってくれた。おかげで、アジア雑語林の1話からすべて保存された。その後、ブログの仕様に大きな変化があったり文字化けというトラブルもあったが、すべてうまく処理してくれた。彼は今も、アジア雑語林専属の無給保安員をやってくれている。ありがたいことだ。

 蔵前さんのひとことから旅行人版のアジア雑語林が再開し、276話(2010年8月19日付け)から今回の1437話まで続いたということだ。

 「しょっちゅう更新しようとするとつらくなるから、まあ、気楽に」と大家の蔵前さんが言うから、「同じ店子の田中真知さんよりは、多い頻度で更新するつもりだけど・・・」と答えると、すかさず「あんな人と比べたらダメだよ」。真知さんは、旅行人では名うての遅筆堂ライターらしいと、そのとき初めて知った。

 アジア雑語林は、初めから身辺雑記を書く気はなかった。私ごときが「これが自慢の健康朝食」という写真と短文を載せても、誰も読まない。だから、少しでも資料になるような文章を書こうと思った。それは、世のため人のためという高尚な目的からではなく、「調べるとおもしろい」からであり、自分用の読書や思考のメモである。ここに書いておけば、あとでブログ内検索をして、自分の文章を発掘できる。あの話、どの本に書いてあったかなあというとき、ブログ内検索をすればわかることがある。

 旅行記でも言えることだが、卓越した文章力のある人なら、立ち食いそばを食べたというだけのことを、感動の文章にすることも抱腹絶倒の文章にすることもできる。開高健東海林さだおなどが、その例だ。そういうたぐいまれなる筆力のない者は、並外れた行動をしてびっくりさせるか、有用な情報を提供するか、コツコツ調べて新鮮な情報を書くしかない。

 週に1回くらい更新しようと思っていたが、毎週原稿を書くようにすると散漫になりがちで構成が悪くなるので、何回分かをまとめて書くようになった。書いているうちに長くなることが少なくないから、2回か3回に分けることがよくある。スマホで読む人のことを考えれば、SNSのように、1回分の文章は短ければ短いほどいいのかもしれないが、ツイッターの短文では、出典を明記して論理的に書くということはできないので、いまだに時代遅れのブログにしている。1回を1000字程度にしたいとは思うが、どうしても長くなり1500~2000字くらいになってしまう。

 ブログの欠点でもあり長所でもあるのは、文章の長さを気にしなくてもいいということだ。書きたければ、どんなに長くなっても差し支えない。印刷物なら「1000字程度」と決められたら、プロはそれに合わせなければいけない。だから、文章の無駄を省き、磨く必要がある。ブログだと、饒舌になりすぎて、だらだらと長くなってしまう・・・というのは中高年のサガか。若者だと、そもそも長い文章は書かない(書けない)。

 

 

1436話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号

 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その3

 

 アジア文庫のホームページが中断したままになっていることは、あまり気にならなかった。私はデジタルに冷たいのだ。それよりも、アジア文庫の葬式本を出したいと思っていた。タイには、ある人がなくなると、その人物の生涯を記録した本を出版するすばらしい習慣がある。故人関連の本でなくても、故人が関わっていた分野や、興味を持っていた分野の本の出版を遺族や友人が引き受けることもある。そういう本を葬式本という。だから、タイの研究者はどういう分野であれ、葬式本が重要な情報源なのだ。私の場合で言えば、タイ音楽の勉強をしているときに古本屋で見つけたのが、タイの西洋音楽の最重要人物ウア・スントーンサナーンの葬式本だった。これで彼の軌跡がわかった。

 アジア文庫の葬式本を作れば、1980年代から2010年までの、日本におけるアジア研究の流れや、出版物の「生きた情報」がわかる。国会図書館の資料を使えば、その時期にどういう本が出版されたかは簡単にわかるが、それはリストでしかない。その時代にアジアの本がどう売れ、どう読まれたのかという「生きた情報」を、アジア文庫の葬式本で読み取れるようにしたいと思ったのだ。

 めこんの桑原さんに相談して、私が編者をつとめることにした。必要な原稿はほとんど手元にある。大野さんからの私信もかなりある。それらの資料を整理して、新たな原稿が必要なら加筆すればいい。本の構想はできたし材料も集まったが、現実に本という形にするには編集もできるデザイナーが必要だ。ギャラなどないタダ働きをやってくれる人はいるだろうか。ダメ元で、蔵前さんに相談メールを送ると、「やらせていただきます」と快諾してくれた。報酬がないだけではなく、とりあえずの経費もないのだ。超多忙な蔵前さんが、急いで本一冊を、ひとりでまるごとデザインする。小説なら、字の大きさや書体や行数などを決めたレイアウトに基づいて、文章を流し込むだけで済むが、この本は構成がやや込み入っていて、手間がかかる。それを引き受けてくれたのだ。印刷費などは、本が出来上がってから、アジア文庫の記念パーティーの会費の一部を当てる計画になっている。

 本づくりに関して、蔵前さんといろいろ相談しながら作業を進めた。「作業実費もないんだ」という話しをすると、「アジア文庫の本として、恥ずかしくないものを作りましょう。カネがないなら、僕が出したっていいですから」というメールを受け取ったときは、目頭が熱くなった。蔵前さんは、安くて良さそうな印刷所を探し、印刷会社とのやり取りをすべて引き受けてくれた。出来上がった本を自分の車で遠方の印刷所まで取りに行き、パーティー会場まで運んでくれた。印刷代金以外に蔵前さん自身がいくら支払ったのか、わからない。言わないだろうと思ったから、聞かなかった。完成した本は『アジア文庫から』というタイトルで、パーティー参加者に配られた。この本は、残部僅少だが数冊はまだあるということなので、購入希望者はめこんに問い合わせてください。貴重品です。上の『アジア文庫から』から飛べます。

 そういういきさつがあって、蔵前さんを敬意を込めて「天下のクラマエ師」と呼ぶことにしたのである。

 「クラマエ」というカタカナ表記には、いわれがある。蔵前さんが運転免許証を取ったばかりのころ、妻の小川京子さんが「ねえねえ、クラマエってさあ、調子に乗っちゃって、くわえタバコでおまけに片手でバックなんかしてんのよ。若葉マークのくせに生意気よねえ」と言っているのを聞いて、「クラマエ」とカタカナ表記した方がおもしろいと思ったのだ。同時に尊敬すべき人物なので、「師」をつけた。「天下」にもいわれがあったと思うが、忘れた。