1576話 カラスの十代 その9

 

 高校の英語の授業のことを書いていたら、いろいろ思い出すことがあって、もっと書きたくなった。

 私が嫌っていた定年直前の英語教師は、受験雑誌では有名人だったらしいが、その手の雑誌などまったく見ない私は、教師の評判などまったく知らない。この教師には必殺技がある。授業中、だれてきたなと感じたら、「これは、3年前の早稲田の問題で・・」などというと、ざわついていた教室内がたちまち静かになり、生徒はノートに問題と解答を書き写していた。

 この教師が失笑を買った授業があった。「次の5つの単語の下線部分の発音が、ひとつだけ違うものを指摘せよ」というものだ。

 教師は黒板に単語を5つ書き、それぞれの発音を教えようとするのだが、もともと典型的なジャパニーズ・イングリッシュ発音に加えて、千葉・茨城訛りが強く、エとイがはっきりしない。江戸と井戸が同じになるようなものだが、その教師が英語の発音を丁寧に指導するから、私のような悪ガキは「全部おんなじ発音じゃねえか」などとヤジを飛ばすから、目を付けられる。この教師は私を無視し、けっして指名しなかった。「はい、回答は?」と生徒を指名し、回答がなければ「その後ろ」と指していくのだが、私の前では、「ひとりおいて、その後ろ」などと私を飛ばす。英語の授業では「出席」にはなっていても、存在しない生徒だった。だからといって、傷つくようなことはない。私もこの教師を「受験英語の世界にしか生きていない存在」だと思っていたのだから。

 高校3年生の夏休み前、受験英語の達人という老教師は、いままでのご褒美なのだろうが、定年となるその年に、生まれて初めて外国に行く栄誉が与えられた。県内の高校生が参加するアメリカでの英語キャンプの団長として、9月半ばまでアメリカに行くというのだ。

 夏休みが終わりちょっとたち、9月下旬になって、老教師が帰国した。その最初の授業では、今までかつて一度もなかったことだが、“アメリカン”の雰囲気で、ニコニコしながらラジカセ片手に教室に入ってきた。その変貌ぶりに、教室内爆笑。アメリカで受けたカルチャーショックを、体全体で表現しているが、アロハシャツを着て授業をやるというとことまではいかないのが残念だ。

 「ハワイでねえ・・・」と、アメリカ話を始めた。

 「ハワイでの入国審査で、『これからどこに行くのか』と聞かれたから、『シアトル』と言ったんだけど、これが通じない。『シーアトル』とか『シアートル』とか、いろいろ発音してみたが、まったく通じないんだねえ。で、航空券の“Seatlle”の文字をみせて『ここ』って言って解決。次の質問は、入国カードを見ながら、『職業欄には教師って書いてあるが、何を教えているのか?』という質問そのものは、2度聞き返してわかったんだけど、まさか『英語です』とは言えないから、『日本語です』とウソをついたんだ」

 入国審査の列では、後ろに高校生たちが並んでいたはずで、ベテラン英語教師の団長の英語力のひどさを見せつけることになったようだ。受験英語の教育では日本有数でも、会話となると高校生以下だという現実を思い知らされたのだろう。その後のアメリカ生活でも、自分の英語が使い物にならないと痛感したことだろう。

 「だから、これから、会話の授業を少しやる。生の英語の発音を聞くということにして、これだ!」とラジカセを指さした。帰国直後のひと月だけは、受験英語を忘れさせる「生の英語を聞く授業」だった。

 それが、悲しくも戦前に教育を受けた英語教師の姿だった。1970年に定年を迎えたということは、1910年代の生まれだ。終戦時は35歳だ。

 「英語教師は、英語をしゃべれないものだ」と、小田実が『何でも見てやろう』で書いている。英語教師は、街の英会話教室の教師とは違うんだという自負、あるいは居直りがあった。英会話は受験には関係ない。英語教育は街のお稽古事とは違うという認識があったのだろうし、英語をしゃべる日本人を、進駐軍の通訳に見立てた「英語使い」と軽蔑していた。英語をぺらぺらしゃべる「タカが通訳」と見下し、重要なのは読解だというのが、幕末以来の外国語に対する日本人の考え方だ。

 この教師のアメリカ話で今でも覚えているのは、参加者の女子校生が入院したという話だ。キャンプ場のトイレ(またしても、トイレの話で恐縮だが)は、もちろん男女別にはなっているが、部屋の床にただ便器だけがいくつも並んでいるだけで、ドアはもちろん壁もない。ただ、便器だけ。「こんなトイレじゃ無理!」と我慢しているうちに病気になって入院・・ということだったらしい。病名は言わなかったが、膀胱炎や腎盂腎炎などだろう。中国のトイレには壁もドアもないという話を聞いたのは、それから数年後だった。

付記:1970年当時の教員の定年が60歳だと思い込んで上の文章を書いたが、調べてみれば、当時の教員の定年は55歳だったかもしれない。もしそうなら、1970年に定年となった英語教師は1915年頃の生まれということになるらしい。終戦時は30歳ということになるようだ。

 

 

1575話 カラスの十代 その8

 

 いつか外国旅行をしようと思っていたから、受験英語の授業は進級卒業に必要な最低限のお付き合いにとどめ、あとは自分で勉強していた。友人が教会の英語クラスに通っているという話を聞き、私もしばらく通った。本当のことを言うと、英語に興味があったのではなく、大好きな人がその教会の英語クラスに通っていると聞き、一緒に行きたくなったのだから、英語は方便だ。私はそれほど勉強熱心な少年ではない。

 英会話サークルは高校の授業とは違い、おそらく普通の英会話学校の授業とも違っていたはずだ。牧師の自宅で開かれた英語教室は、生徒が数分の話を英語でして、それを牧師が聞く。話の内容をよく理解できないとか、明らかに文法や発音が誤っていれば訂正しつつ、話の内容についていろいろ質問したりする。話す内容は、日本昔話でも学校生活のこまごました体験でも、話題は何でもよかったが、そういう話はアメリカ人牧師にとっては興味ある話題だったようだ。生徒は1週間かけてお話を英語で考えるのだが、ノートに文章を書くようなことはしない。授業で作文を読んではつまらないのだ。あくまで、「お話をする」のである。こうして、数人の高校生と毎週1時間ほど英語で話をしていた。高校の英語の授業はひどくつまらなかったので、まるでやる気がなかった。だから試験をやれば、いつも50点前後だった。

 アメリカ人牧師の授業は無料なのはありがたいが、回を重ねるにつれ教会行事へのお誘いが強くなり、それは牧師の本来の目的であるとはわかっているが、「日曜礼拝の誘いは、もうこれ以上、断れないな」と感じたところで、英語教室から身を引いた。会話の訓練はそれだけで、あとは米軍放送FEN(1997年以降はAFN)を聞いていたり、英語の歌を翻訳したり、旅行会話の本を読んだり、易しい英語の本を読んだりしていたが、いずれも「勉強をしていた」のではなく、ただ楽しくひとり遊びをしていただけだ。

 ほかの科目も進級・卒業に必要な最低限のお付き合いだけで、自分が知りたいことは自分で学ぶという態度が自然に身についた。だから、多少は雑学を身につけていても、私にはあらゆる分野の基礎学力というものがないのだ。そのあたりが、理系にも強い天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんや田中真知さんといった教養人とは大いに異なるところだ。

 とにかく、ひどい成績だった。それなのにと言うべきか、受験校での学習意欲のない生徒だからというべきか、3年生のある日、「ちょっと話があるから、教員室に来い」と担任が言った。

 担任は机の引き出しをあけて、書類を取り出した。英語の書類だ。

 「インドの大学に行く気はあるか? 留学生を募集する書類がウチの学校にも来て、もし興味があれば、手続きをするが・・・、どうだ?」ということだった。その当時はまだインドにはまるで興味がなく、外国に行きたいとは思えども、まだその覚悟はなく、インドで勉強したいということも特にないので、留学生試験とか費用といった細かい話はいっさい聞かないまま、教師の提案に首を振った。「外国」は、まだ夢の先の遠いところにあった。外国は、「はい、試験を受けてみます」などと簡単に言える位置にはなかった。私にとってだけでなく、あのころのほとんどの日本人には、外国はまだ「遥か遠くにある幻のような存在」だったのである。

 担任と深く話したことはないが、私はまじめに受験勉強をして、その結果立派なサラリーマンになるような道に背を向けていることがわかっていたようだ。「こいつには、インドなんかお似合いかもしれない」と思ったのかもしれない。今から考えると、「なかなかいい読みでしたね」と言いたくなる勘だ。

 高校を卒業したのは1971年で、2年後の73年にやっと日本を出ることができた。留学生試験の紹介があってからたった2年後に、私は現実のインドにいた。1ドルが360円の時代が終わったばかりだが、300円でも外国の物価は高かったが、自費の渡航である。1度行ってみれば、外国はすぐ近くにあるとわかって、それ以降外国通いが始まり、現在に至る。

 

 

1574話 カラスの十代 その7

 

 高校時代は、本と映画の日々だった。大好きな音楽と深くつきあうのは、諦めた。レコードは高く、コンサートはもっと高い。高いレコードを買うくらいなら、古本屋のワゴンセールで、1冊30円か50円の文庫や新書を山ほど買った方がいい。だから、音楽はひたすらラジオを聴くだけだった。R&Bとジャズを好んで聞いていた。ロックやフォークにはほとんど関心がなかった。級友たちと音楽の話をすることがたまにあったが、長くなりそうなのでその話は別の機会にしよう。

 高校時代、神保町のほか上野にもよく行った。博物館のような雑多な情報に満ちている場所に興味を持ったのだが、東京国立博物館(通称、東博)は高校時代に初めて行き、結局それが最後になっている。私は博物館は好きだか、美術品には全く興味がない。東博は、日本と東洋の美術品を展示している場所だと気がつき、以後足を運ぶことはなかった。あの時の感想をありていに書けば、「えらそーなモンばっかり、ありがたそうに飾りやがって」である。美術嫌いでも、時には都立美術館に行ったことはあるが、東博には1度行っただけ、国立西洋美術館には行ったことがない。MUSEUMという外国語は、美術館の意味もあるから、外国旅行中にMUSEUMに行くときは注意している。私は芸術に理解も関心もはないのだ。

 東博の近くにある国立科学博物館(通称、科博)は、科学嫌いなクセに、すっかり気に入り、博物館友の会のような会の会員だったこともある。あのころのことはよくは覚えていないのだが、多分、イネとかムギといった食べられる植物に関する講演会があって、会員登録したのだと思う。20代になってからは、それほどしばしば訪れるわけではないが、上野に行ったときは、特別展の内容によってはときどき立ち寄る。科学といっても自然科学だから、私には近寄りやすいのだろう。先日放送した「探検! 巨大ミュージアムの舞台裏~国立科学博物館~」(NHKBS)は、もちろん興味深く見た。

 高校時代と上野の博物館の話を書いていたら、その当時のことを少しずつ思い出してきた。私の高校時代は1960年代末から70年代初めなのだが、別の言い方をすれば、終戦から二十数年後ということになる。なぜそういうことを言い出したかと言えば、京成上野駅脇の階段には、ときどき傷痍軍人が立っていたという記憶があるからだ。白衣、アコーディオンと松葉杖。「戦後間もなく」の面影を残している上野の地下通路は、かなり後までそのままだったが、多分、もう消えただろう。のちに、ニセモノの傷痍軍人もいたという話を聞いた。

 上野と言えば、国鉄上野駅構内の両替所のことも思い出した。1970年代の話だ。駅構内に「両替所」があるという話を旅仲間がしていた。赤坂には「外貨両替 Exchange」という看板を掲げた宝飾店があることは知っていた。日本も外国人客を意識したのかなというと、「日本円から日本円への両替だよ」という。わけのわからない話なので、教えてもらった場所に行ってみたら、本当にそうだった。日本円の高額紙幣を、手数料を取って両替している窓口が駅構内にあったのだ。

 展示品が気にいらなかった東博だが、「建物はおもしろかった」という記憶がある。20世紀初めか、1930年代の修復か、時代はよくわからないが、博物館内部のインテリアが強く記憶に残っている。とりわけ、トイレだ。床は時代がかった白いタイルだったような気がする。窓枠の金属は、鋳物だったかもしれない。ほとんど入場者がいない初夏で、古風なインテリアのトイレに、強い陽がさしていた。個室のドアも古風で、味のあるものだった。今、ネットで画像検索しても昔のトイレの姿は見つからない。当然、衛生的で近代的なトイレにリフォームしたのだろう。

 理系が苦手でも、科博によく行ったのは植物に興味があったせいで、理系の専門書でも読んでみようと思い、時に楽しんで読むのは、植物学と農業と、そして建築だ。東博に行っても、印象に残ったのは建築だったというのが、のちの私の趣味を表しているようだ。

 まったく興味のなかった東博に初めて注目したのは、建築の勉強をしていて、帝冠様式の例として、東博が語られたからだ。

 上野に出たら、帰りにアメ横に寄るというのがきまりになり、バナナのたたき売りを眺め、食材探検をして、御徒町の韓国朝鮮街でキムチなどを買い、匂いを気にしながら電車に乗るのである。池之端を散歩して根津か本郷へ・・・というのは、高校を卒業してからの趣味だ。

 

 

1573話 カラスの十代 その6

 

 カラスとの高校生活が嫌で、かつてないほどの勉強をして入学した共学高校だったが、入学早々、私が腹に収めて決して口にしなかったことを大声でしゃべっているヤツがいた。

 「なんだよ、この学校、ブスばっかりだ。かわいい子なんて、ひとりもいないぞ」

その話を浴びせられた女子生徒が、ゆっくり言った。

 「そのことば、そっくりそのままお返しします。かっこいい男なんて、ひとりもいないじゃない。お互い様よ」

 生徒のみんなが「お互い様」だとわかっているから、この問題が大きくなることはなかった。学内で大きな問題にしたとしても、どうにもならないとわかっているからだ。

 隣りの市の県立高校の文化祭に行ったことがある。そこには、なんとも魅力的に見える生徒たちがいた。有名企業のサラリーマンや官僚になることを目標にしているわけじゃないよと、外見で表しているように見えた。「この高校を受ければよかったなあ」と思ったが、もしかして「隣の芝生」だったかもしれない。

 嫌な高校に入ったのだが、級友たちも嫌なヤツばかりだったということはまったくない。「どうせ、オレを右翼だと思ってるんだろうが・・・」とよく自覚している体育教師たちや生徒の恋愛事情を嗅ぎまわっている国語教師など嫌な教師はいたが、嫌な生徒はたったひとりいただけだ。学業だけは優秀で有名大学に行ったから、悪徳弁護士にでもなったかもしれない。暴力団企業の顧問弁護士がお似合いなヤツだ。級友のほとんどは、他人に干渉しない個人主義だったから、勝手に生きたい私にはかえって心地よかった。彼らのほとんどは、1970年代以降の日本を支える善良なる保守層に育っていったに違いない。

 予想したように、楽しい共学の高校生活はなく、受験教育に魅力を感じることはなく、おもしろいヤツも少なく、私は右足を高校に踏み入れたまま、左足は本と映画のひとり遊びにふけった。神保町に通って種々雑多な本を買い、名画座で2本立てを見るという高校生活を過ごした。映画ファンなら、私が高校生だった1960年代末のおもしろさはわかるだろう。日本語で言う「アメリカン・ニューシネマ」(英語だとNew Hollywood)の時代で、「俺たちに明日はない」、「ワイルド・バンチ」、「イージー・ライダー」、「真夜中のカーボーイ」、そして好きにはならなかったが、同時代のイタリアやフランスや日本の芸術映画も見た。「同時代」が、おもしろかった時代だ。

 土曜日の午後は映画を見に行くと決め、近くの名画座に通った。高校の近くには日本映画の上映館しかなく、外国映画は基本的にはその名画座に行くしかなかった。見たい映画を見に行くのではなく、上映している映画を見に行ったのである。今でも映画ファンだが、特定の映画しか見ないマニアにはならずに済んだのは、こういう経験があるからだろう。つまり、私は「スクリーン」派でも「キネマ旬報」派でもなかったということだ。

 何の知識もなく見た映画の中で、今もトップ10に入るのが、フランス映画「冒険者たち」(1967)である。アラン・ドロンの名と顔は知っていたが、映画を見るのはこれが最初だったかもしれない。リノ・バンチェラは、なぜか名前だけは知っていた。ジョアンナ・シムカスはまったく知らない俳優だったが、映画冒頭の、真冬のスクラップ置き場を彼女が自転車(モペット)で走るシーンとバックに流れる音楽で、胸を撃ち抜かれた。

 ずっとあとになって、「宿無」(やどなし)を見た。1974年の勝プロ作品で、高倉健勝新太郎梶芽衣子が出演した映画だった。それからまただいぶ時間が流れ、その映画が「冒険者たち」の日本版なのだと知ったが、まったく気がつかなかった。男2女1のロードムービーは「明日に向かって撃て」(1969)があり、その前には「突然炎のごとく」(1962)があり、黄金の設定とも言えるといったことを、映画を見ているうちに覚えていった。雑誌「ぴあ」の創刊は、私が高校を卒業した翌年の1972年だから、高校時代は新聞の映画館広告を頼りにしていた。

 

 

1572話 カラスの十代 その5

 

 中学の卒業式の前か後かの記憶はないのだが、高校から入学予定者に集合がかかり、講堂に集められた。そう、昔は講堂というものがあったのだ。その後、体育館ができて、講堂が取り壊されることになる。そういう端境期に私は高校生になった。高校の説明会がはじまるまで、同じ中学の同窓生たちと雑談をした。話題のひとつが、成績が極めて優秀だった生徒がここにはいないことだった。小学校も一緒だったから、もちろんヤツの顔も名前も知っているのだが、私とは相性が悪かった。私に対してだけではなく、私と親しくしている友人たちにもなぜか敵意を示す成績優等生だった。この高校に合格するなら、成績が極めて良かったアイツが真っ先だと思われていたのに、なぜか不合格だった。「どっかの、二次募集の高校を探しているらしいよ」という噂があったが、入学した高校のことも、その後のこともわからない。

 入学式前のその会では、校歌指導にかなりの時間が使われた。歌唱指導は、のちに髪を伸ばし始めた私と対立した音楽教師だった。音楽を選択しなかったから、その教師の授業を受けたことはない。最初の遭遇は、バス停「高校前」を出たバスの車内だった。その音楽教師が乗り込んで、後部席に座っている私に直進してきた。髪を伸ばし始め私に、「なんだその髪は、コジキかお前は! さっさと切れ!!」と車内に怒鳴り声を響かせた。スクールバスではなく、普通の路線バスだ。校内でも、教師に言わせれば「教育的指導」、私に言わせれば「言語的脅迫行為」が何度かあったが、3年生の秋に、その教師はあっけなく死んだ。ガンだったらしい。三島由紀夫の自刃(じじん)も、その年だった。

 明るい日曜日に、高校からそれほど離れていない教会で行われた音楽教師の葬儀に、なぜか出かけた。ほかに用があったわけではない。葬式のためにわざわざ外出したのだが、葬儀には参列せず、教会の庭から葬儀をちょっと眺め、すぐに帰った。常識人とは思えない音楽教師に、興味を持ったのかもしれない。進学強化が常識の高校生活のなかで退屈していたから、異質な存在を見つけて気になったのかもしれない。あの教師は、好きではないが、けっして大嫌いでもなかった。

 入学前説明会では、トイレの使い方の説明というのもあった。あの当時、小学校も中学校も汲み取り式のトイレだったが、高校は水洗式だったから、ロール式のトイレットペーパーの使い方や交換の仕方などの指導があった。そのほか、学校生活や日常生活の注意点など数々の規則の話が合って、うんざりしていたのだが、トイレのことはどの教師がどう説明したかということまで鮮明に覚えている。そのころから、トイレに興味があったのかもしれない。

 帰りがけに、印刷物を手渡された。数学の問題集で、「入学したらすぐに試験をするから、よく勉強しておくように」というお達しだった。もしかして英語の問題集もあったかもしれないが、英語のことは記憶にない。これが、のちに何度も感じることになる「いやな高校に来たな」と思う最初の出来事だった。

 入学式を終えて1週間たって、試験が行われた。その翌週、答案用紙が返却された。72点だった。いままで「数学は、50点を超えればよし!」という中学生活だったから、幸先のいい滑り出しと思われた。ちょっと前に数学の猛勉強をしただけのことはある。答案用紙を返却し終わった教師が言った。「70点台がふたりいる。入学1週間にして、すでに落ちこぼれたな。平均点は92点だ」

 そう、私はこの時から落ちこぼれたのだ。有名大学に合格することが最重要課題の高校とは、うまくつきあえない。勉強は嫌いではないから、自分の勉強は自分でやろうとなんとなく思った。

 高校の1学年は360人だった。定期試験のあと、成績表が配られた、総合成績の順位が書いてあり、私は入学直後から卒業時まで、300番台が普通で、まれに300番台を割る椿事があった。勉強をする気のない私よりも後ろに、まだ数十人の生徒がいることが驚きだったが、後ろに十数人しかいないとわかったときは、さすがにちょっとオタオタした。そういうデキソコナイの成績だった。小学校からの「優等生で、教師にとっていい子」であろうとした少年は、進学高校で成績最下層に落ちたことで、精神は安楽した。ヒゲと髪を伸ばし始めた。もう「いい子」にしていなくてもいいと思ったら気が楽で、成績を上げようというような向上心などまったくなかった。教師にほめられたいなどとは思わなくなった。

 実は、あの当時、1学年320人だと記憶しているのだが、念のために調べてみると、公立高校は1960年代なかばから、ひとクラス50人から45人になっている。それが40人になるのは1993年以降だ。私の時代は、45人の8クラスだから、1学年360人だったということになるようだ。

 

  

1571話 カラスの十代 その4

 

 滑り止めの、私立高校を受験した。男子校ということを、耳と活字ではもちろん知っていたが、校舎に足を踏み入れると、黒い制服を着たカラスのような集団に囲まれて、恐れおののいた。初めて、「男子校」のおぞましき光景を実感した。文字通り暗黒の世界だ。私には兄も弟もいない。父は長らく単身赴任をしていたから、常に男だけがいるという空間に身を置いたことがない。私がスポーツにもバクチにもまったく興味がないのは、そういう環境のせいかもしれない。こんなカラスの群れのなかで過ごす十代なんて、絶対に嫌だと思った。頭に黒袋をかぶせられて、視覚も聴覚も奪われ、呼吸も苦しくなったような気分だった。少年院送致とか軍に入隊するというのは、こういう気分だろうか。

 幸か不幸か、この男子校には合格したのだが、もし県立高校に入れないと、このカラスの高校に通わないといけないのかと思うと、暗澹たる気分になった。うれしくない「高校合格」だった。

 なんとしてでも、男女共学の県立高に入らないといけない。地獄に落ちそうな自分を救えるのは、自分しかいない。そのためには、この先それほどの日数はないが、県立高校合格のために懸命に受験勉強するしかない。

 この感覚を包み隠さず書けば、中学生の性欲でありエロパワーである。男しかいない高校生活なんて、暗黒だ。私は今も昔も、もてない男だが、それでも、刑務所のような高校生活はいやだと思った。軍隊や旧制中学高校や運動部的な「男と男の世界」を、はっきり言えば心底嫌悪していた。共学の高校に行けば、たちまちドラマのように甘い学園生活が始まるなどとはもちろん思っていないが、どこをみても男しかいないカラスの高校生活は、絶対に嫌だ。そう強く思ったアホ中学生は、その後の生涯をも通じて、あんなに勉強したことはないというくらい勉強した。もはや、「数学は嫌い」などと言っている余裕はない。比較的得意な国語や社会はさらに勉強をしてもたいした加点にはならないから、大きな加点の可能性がある数学の勉強に励んだ。中学生の、すさまじきエロパワーである。数学に対する嫌悪感など些細なことだ。カラスに囲まれた学園生活の恐怖に比べれば、屁みたいなもんだ。

 のちに、ビデオデッキが急速に家庭に普及した理由は、自宅でエロビデオを見たい男たちが大勢いたからだという説を耳にして、エロパワーは家電普及率も急速に押し上げるという事実を知った。私の場合は、数学の成績の急上昇という目的があった。県立高校の壁はかなり高かったと思うが、受験した日のことはまったく覚えていない。手ごたえがあったのか、まるでなかったのかといった記憶は、いっさいない。

 合格発表の日は、ひとりで高校に行った。校庭の、合格者掲示板のかなり手前に担任と、小学校からの友人の母親がふたりいて、歩いてくる私に、口々に「前川君、合格していてよかったわねえ」と言った。合格者掲示板に番号ではなく名前が書いてあったから私が合格したことがわかったのか、あるいは担任が生徒の受験番号を控えていて、番号から合格者がわかったのか不明だが、中学からの受験者で、もし不合格者がでるなら、私が真っ先だということは明らかで、だから「よかったね」と私に話かけたのかもしれないと思った。かくして、幸運にもカラス学園の生徒にならずに済んだ。

 生涯初であり、唯一でもあるのだが、数学の猛勉強が役に立った。あれほど嫌だった数学でも、「共学の甘い夢」を現実にするためと覚悟を決めれば、必死になれるのだ。げに恐ろしきエロパワーである。人類の進歩というのは、こういうものかと思った。だからといって、それをきっかけに数学が好きになるような優等生ではなかった。私の基本は、好きなことしかしない怠け者なのだ。

 あのカラス学園は、ちょっと前に共学になった。そもそも、男子校とか女子校なんて不自然なのだ。生徒や学生を、性によって入学を差別するのは根本的におかしいのだ。

 

 

1570話 カラスの十代 その3

 

 あのころ、1960年代のなかばごろ、東京には東北地方などから集団就職してくる中卒者がいくらでもいた時代だ。私の中学校の卒業者の進路はまったく知らないが、高校に進学した生徒は半分を超えたかどうかというくらいだと思う。高校進学を希望していたが、受験に失敗して働き始める者もいた。家庭は貧しくても学業成績が優秀なら、企業内の学校に行くこともできた。中学卒業後、すぐ働き始めた卒業生でも、夜間の高校に通った者もいるだろう。専門学校に進む生徒もいた。今は、専門学校は高卒者が入学するのが普通だろうが、昔は看護学校でも美容学校でも、中卒で入学できた。だから、中学卒業者の進路の全貌は、よくわからないのだ。

 文部科学省の資料では、私が中学を卒業したころの全国の高校進学率は70パーセントを超えているというのだが、そういう実感はない。純農村でも山村離島でもなく、首都圏の中学生でも、7割以上が高校に進学したとは思えないのだ。私の中学時代、市内の高校は、県立2校、市立1校、私立1校(女子校)の計4校だったが、卒業する前に私立校が1校増えて、計5校になった。それが、のちに最大18校に増えたのである。若者の人口が、20年で3倍になったとは思えない。だから、私の中学時代には、中卒者の7割以上を受け入れる高校は、なかったと思う。地域をぐっと広げても、どこも人口が急増している。つまり、中卒者の7割を受け入れる高校の定員はなかったと思うのだ。

 それはさておき、この私の進路だ。「中学を出たら、研究生活をします」と言い出すバカ中学生を、親も担任も、「はいはい、そんなバカなことを言ってないで、どの高校に行きたいか、さっさと考えなさい」といなした。

 素直な私は、「まあ、それもそうだな」と簡単に納得して、志望校を決めた。「研究生活」など、浮世離れしている未来像だと、自分でもわかっていたのだろう。将来の希望としては、「プロ野球選手になる!」という小学生の夢よりも、実現が難しいあやふやなものだ。

 親しい友人たちと同じ高校に行きたかったので、「右に同じ」としたのだ。ビーフカレーにするかチキンカレーにするか、それともカツ定食かという選択と同じようなもので、そもそも高校に進学しようという強い意志などないのだから、ほとんど何も考えずに志望校を決めた。工業高校にも商業高校にも行く気がないから、そもそも選択肢は少ないのだ。しかし、「行く」と言ったその県立高校には、やや問題があったようだ。

 私の中学では、トップクラスの成績優秀者が行く高校があり、その下の、成績が上の中か上の下の生徒が行く高校があり、私は何も考えずに、その高校を志望してしまったのだ。教師は、渋い顔をした。私の成績は、上の下か中の上くらいだった。いまにして思えば、深く考えずにその高校を選んだことで、私の生き方が大きく変わっていくのだが、その話は、おいおいすることにする。

 「絶対に無理だとは言いませんが、志望校のレベルを下げた方が安全なんですがねえ・・」と教師は言った。高校の数が少ないので、受験に失敗すると、そのあとの志望校選択がかなり難しいから安全策を推奨したのだ。しかし、最終的に私の志望は認められたものの、かなり危うい選択なので、滑り止めを受験するようにというアドバイスを受けた。私が住んでいる市の私立高校は女子校なので、隣りの市の私立高を受けることになった。男子校ということ以外、何も知らない。そもそも入る気がない高校なのだ。

 その高校は、名前さえ書ければ合格という簡単な高校ではない。高校全入時代の今なら、高校の宣伝のために、日本語ができない外国人スポーツ選手の入学を許す高校があるようだが、昔はそれなりに難しい入試だったと思う。あのころは、高校の推薦入学というのは・・・、そうか、野球の推薦入学はすでにあったな。甲子園で宣伝したい私立高校だ。ヘタに勉強などさせずに、授業よりも野球を重んじ、学校と地元の宣伝をしてくれればいいという方針の高校を、世間では「名門校」と呼ぶんだったな。