1573話 カラスの十代 その6

 

 カラスとの高校生活が嫌で、かつてないほどの勉強をして入学した共学高校だったが、入学早々、私が腹に収めて決して口にしなかったことを大声でしゃべっているヤツがいた。

 「なんだよ、この学校、ブスばっかりだ。かわいい子なんて、ひとりもいないぞ」

その話を浴びせられた女子生徒が、ゆっくり言った。

 「そのことば、そっくりそのままお返しします。かっこいい男なんて、ひとりもいないじゃない。お互い様よ」

 生徒のみんなが「お互い様」だとわかっているから、この問題が大きくなることはなかった。学内で大きな問題にしたとしても、どうにもならないとわかっているからだ。

 隣りの市の県立高校の文化祭に行ったことがある。そこには、なんとも魅力的に見える生徒たちがいた。有名企業のサラリーマンや官僚になることを目標にしているわけじゃないよと、外見で表しているように見えた。「この高校を受ければよかったなあ」と思ったが、もしかして「隣の芝生」だったかもしれない。

 嫌な高校に入ったのだが、級友たちも嫌なヤツばかりだったということはまったくない。「どうせ、オレを右翼だと思ってるんだろうが・・・」とよく自覚している体育教師たちや生徒の恋愛事情を嗅ぎまわっている国語教師など嫌な教師はいたが、嫌な生徒はたったひとりいただけだ。学業だけは優秀で有名大学に行ったから、悪徳弁護士にでもなったかもしれない。暴力団企業の顧問弁護士がお似合いなヤツだ。級友のほとんどは、他人に干渉しない個人主義だったから、勝手に生きたい私にはかえって心地よかった。彼らのほとんどは、1970年代以降の日本を支える善良なる保守層に育っていったに違いない。

 予想したように、楽しい共学の高校生活はなく、受験教育に魅力を感じることはなく、おもしろいヤツも少なく、私は右足を高校に踏み入れたまま、左足は本と映画のひとり遊びにふけった。神保町に通って種々雑多な本を買い、名画座で2本立てを見るという高校生活を過ごした。映画ファンなら、私が高校生だった1960年代末のおもしろさはわかるだろう。日本語で言う「アメリカン・ニューシネマ」(英語だとNew Hollywood)の時代で、「俺たちに明日はない」、「ワイルド・バンチ」、「イージー・ライダー」、「真夜中のカーボーイ」、そして好きにはならなかったが、同時代のイタリアやフランスや日本の芸術映画も見た。「同時代」が、おもしろかった時代だ。

 土曜日の午後は映画を見に行くと決め、近くの名画座に通った。高校の近くには日本映画の上映館しかなく、外国映画は基本的にはその名画座に行くしかなかった。見たい映画を見に行くのではなく、上映している映画を見に行ったのである。今でも映画ファンだが、特定の映画しか見ないマニアにはならずに済んだのは、こういう経験があるからだろう。つまり、私は「スクリーン」派でも「キネマ旬報」派でもなかったということだ。

 何の知識もなく見た映画の中で、今もトップ10に入るのが、フランス映画「冒険者たち」(1967)である。アラン・ドロンの名と顔は知っていたが、映画を見るのはこれが最初だったかもしれない。リノ・バンチェラは、なぜか名前だけは知っていた。ジョアンナ・シムカスはまったく知らない俳優だったが、映画冒頭の、真冬のスクラップ置き場を彼女が自転車(モペット)で走るシーンとバックに流れる音楽で、胸を撃ち抜かれた。

 ずっとあとになって、「宿無」(やどなし)を見た。1974年の勝プロ作品で、高倉健勝新太郎梶芽衣子が出演した映画だった。それからまただいぶ時間が流れ、その映画が「冒険者たち」の日本版なのだと知ったが、まったく気がつかなかった。男2女1のロードムービーは「明日に向かって撃て」(1969)があり、その前には「突然炎のごとく」(1962)があり、黄金の設定とも言えるといったことを、映画を見ているうちに覚えていった。雑誌「ぴあ」の創刊は、私が高校を卒業した翌年の1972年だから、高校時代は新聞の映画館広告を頼りにしていた。