1572話 カラスの十代 その5

 

 中学の卒業式の前か後かの記憶はないのだが、高校から入学予定者に集合がかかり、講堂に集められた。そう、昔は講堂というものがあったのだ。その後、体育館ができて、講堂が取り壊されることになる。そういう端境期に私は高校生になった。高校の説明会がはじまるまで、同じ中学の同窓生たちと雑談をした。話題のひとつが、成績が極めて優秀だった生徒がここにはいないことだった。小学校も一緒だったから、もちろんヤツの顔も名前も知っているのだが、私とは相性が悪かった。私に対してだけではなく、私と親しくしている友人たちにもなぜか敵意を示す成績優等生だった。この高校に合格するなら、成績が極めて良かったアイツが真っ先だと思われていたのに、なぜか不合格だった。「どっかの、二次募集の高校を探しているらしいよ」という噂があったが、入学した高校のことも、その後のこともわからない。

 入学式前のその会では、校歌指導にかなりの時間が使われた。歌唱指導は、のちに髪を伸ばし始めた私と対立した音楽教師だった。音楽を選択しなかったから、その教師の授業を受けたことはない。最初の遭遇は、バス停「高校前」を出たバスの車内だった。その音楽教師が乗り込んで、後部席に座っている私に直進してきた。髪を伸ばし始め私に、「なんだその髪は、コジキかお前は! さっさと切れ!!」と車内に怒鳴り声を響かせた。スクールバスではなく、普通の路線バスだ。校内でも、教師に言わせれば「教育的指導」、私に言わせれば「言語的脅迫行為」が何度かあったが、3年生の秋に、その教師はあっけなく死んだ。ガンだったらしい。三島由紀夫の自刃(じじん)も、その年だった。

 明るい日曜日に、高校からそれほど離れていない教会で行われた音楽教師の葬儀に、なぜか出かけた。ほかに用があったわけではない。葬式のためにわざわざ外出したのだが、葬儀には参列せず、教会の庭から葬儀をちょっと眺め、すぐに帰った。常識人とは思えない音楽教師に、興味を持ったのかもしれない。進学強化が常識の高校生活のなかで退屈していたから、異質な存在を見つけて気になったのかもしれない。あの教師は、好きではないが、けっして大嫌いでもなかった。

 入学前説明会では、トイレの使い方の説明というのもあった。あの当時、小学校も中学校も汲み取り式のトイレだったが、高校は水洗式だったから、ロール式のトイレットペーパーの使い方や交換の仕方などの指導があった。そのほか、学校生活や日常生活の注意点など数々の規則の話が合って、うんざりしていたのだが、トイレのことはどの教師がどう説明したかということまで鮮明に覚えている。そのころから、トイレに興味があったのかもしれない。

 帰りがけに、印刷物を手渡された。数学の問題集で、「入学したらすぐに試験をするから、よく勉強しておくように」というお達しだった。もしかして英語の問題集もあったかもしれないが、英語のことは記憶にない。これが、のちに何度も感じることになる「いやな高校に来たな」と思う最初の出来事だった。

 入学式を終えて1週間たって、試験が行われた。その翌週、答案用紙が返却された。72点だった。いままで「数学は、50点を超えればよし!」という中学生活だったから、幸先のいい滑り出しと思われた。ちょっと前に数学の猛勉強をしただけのことはある。答案用紙を返却し終わった教師が言った。「70点台がふたりいる。入学1週間にして、すでに落ちこぼれたな。平均点は92点だ」

 そう、私はこの時から落ちこぼれたのだ。有名大学に合格することが最重要課題の高校とは、うまくつきあえない。勉強は嫌いではないから、自分の勉強は自分でやろうとなんとなく思った。

 高校の1学年は360人だった。定期試験のあと、成績表が配られた、総合成績の順位が書いてあり、私は入学直後から卒業時まで、300番台が普通で、まれに300番台を割る椿事があった。勉強をする気のない私よりも後ろに、まだ数十人の生徒がいることが驚きだったが、後ろに十数人しかいないとわかったときは、さすがにちょっとオタオタした。そういうデキソコナイの成績だった。小学校からの「優等生で、教師にとっていい子」であろうとした少年は、進学高校で成績最下層に落ちたことで、精神は安楽した。ヒゲと髪を伸ばし始めた。もう「いい子」にしていなくてもいいと思ったら気が楽で、成績を上げようというような向上心などまったくなかった。教師にほめられたいなどとは思わなくなった。

 実は、あの当時、1学年320人だと記憶しているのだが、念のために調べてみると、公立高校は1960年代なかばから、ひとクラス50人から45人になっている。それが40人になるのは1993年以降だ。私の時代は、45人の8クラスだから、1学年360人だったということになるようだ。